平成30(2018)年3月19日(月)発表の JR西日本 ニュースリリースによると、1995年8月から北陸線(米原〜木之本)での臨時列車に用いられてきたC56型蒸気機関車の同線における使用を5月27日の運転で終了すると、正式発表がなされた。
山口線においてC56が使用される最終日は5月6日であると、2月23日の同ニュースリリースにおいて発表されている。ということは、本線上を走るのは北陸線が最後という事になる。最終日の5月27日までの間で北陸線を走るのは、3月4日、3月25日の2日だけである。
3月4日は都合で「北びわこ1号」のみを、3月25日には回送は写さず、「1号、3号」のみを撮影してきた。
上写真;春まだ浅く、色彩の薄い冬のような日であった。湖北らしい家並みの向こうを、C56が駆け抜けた。2018年3月4日撮影。
上写真2枚;ようやく湖北にも春がやってきた。来年の春、湖北に C56 の姿は無い。そう思うと健気に走る同機が可哀想になってきた。2018年3月25日撮影。
上写真2枚; C56 の本線運転最終日(5月27日) 撮影。
平成7(1995)年から「 SL 北びわこ号 」は運行されているが、当初から充当されていた機関車が C56。湖北を走って23年弱、ついに 本線運転の最終日がきてしまった。現役時代には無縁だった米原〜木之本の区間だが、今では妙に湖北の風景に似合っていた。 ホテルや観光案内所などには、長浜鉄道スクエアで開催の「さよならポニー」展のチラシが置いてあった。そして北びわこ周遊観光フォーラム発行の「北びわこ見聞録」という季節誌の表紙もC56 であった。惜別の気持ちを込めて、それらのチラシや看板を入れて写してみた。7月15日から始まる「夏の SL 北びわこ号」の運転 には、D51 が登場する。ただし減便されて従来の1号、つまり午前中の1本の運転だけとなるのが寂しい。
上写真2枚;
「 SL北びわこ号 」2018年 夏期運転は、2回目の運転日である7月22日が初撮りとなった。
本来は C56 に代って D51 が牽引予定であった。しかし中国・四国地方の豪雨災害で山陽線が不通となり、予定の D51 が来ることができなくなり、たまたま修理で梅小路に来ていた C57 が代走することとなった。
撮影した場所は午前中に走る汽車が順光となるので、時々 訪れる場所だ。この場所には湖北の田圃を潤す揚水施設が有る。この施設は知っていたが、これまであまり注意を払うことが無かった。 しかし昨日は運よく農夫さんが近くにいらっしゃったので、少し訊ねることができた。
この施設には「 番水指定図 長浜南部土地改良区」という看板が掛かっていた。よく見ると、「揚水期間 7月21日〜9月6日」 と書かれている。指定図の区割りは三カ所に分類されている。最北部は長浜新川、南端は米原市との境界線までである。最東端は田村山の裏側にも及ぶ。しかし、この揚水施設のある場所は含まれていない。 農夫さんがおっしゃるには、番水とは稲穂が出る時期で水が特に必要な間、水をパイプで内陸部に送る、その水のことだという。土地で順番に水を送るから、略して番水というのだろう(拙者の私見だが)。炎天下で農作業の手を止めて教えて下さっており、あまり引きとめてお尋ねできなかったのだが、多分この施設は分水のサイフォンのような役割かもしれない。ちなみにこの辺りで琵琶湖から水を吸い上げる直近の湖岸装置は、「長浜南部揚水機場」という処がある。そこも、またの機会に訪れてみたい。
高時川から木之本町馬上への井堰については、既にHP に UP してある
井堰に関しては、かつては姉川系も天野川系も共通の問題(水争い)があった。撮影地にいらっしゃった農夫の方も、昔は水を奪い合ったが、今はいい時代になった、と仰ってらしたのが印象に残った。
上写真;2018年8月19日 撮影。 稲穂が色づき始めている。成熟期から黄熟期に入りかけているのだろう。3年前のデーターだが、滋賀県全域における水稲の主食用収穫量は15万8500トンであり、湖北では10a 当たり 502Kg の収穫高を確保している。
湖北では平安時代から稲作が盛んであったが、水田面積に対して主だった河川(天野川・姉川・高時川)などの流水量は十分でない。よって現在では河川からの利水だけでなく、用水路の発展で井堰からの取水、そして琵琶湖からの逆水(揚水)による灌漑でまかなっている。特に用水路が網目状に敷設されている様は、撮影で田や集落内を歩くと驚くばかりである。
上写真;「SL 北びわこ号」は湖北平野を走る。平野部ゆえに本当の山越えの勾配は無く、登り勾配となるのは 天野川・姉川・高時川を越える堤防越えというのが特色である。つまり田畑や集落よりも川の床が高い処にある、いわゆる天井川なのだ。それらの河川は主に伊吹山系に発するが、川は昔から氾濫し易かった。それゆえに堤防を高くするのだが、川床は山からの花崗岩などの粒の荒い砂粒のため堆積しやすく川床が埋まりやすかった。よってまた洪水を引き起こす、、、その悪循環で川がどんどんと高い所に位置するようになったのだ。粒が荒い川床は夏の水が少ない時期になると「瀬切れ」といって流水が消えてしまうことがある。しかし川の水量が減っても、伏流水となった流れが枯れることは無かったという。
添付写真も、伏流水が湧水として出てきて水を湛えた状態である。この水は用水路となって周辺の田に供給されている。湧き出た水は澄んで綺麗で、冷たかった。
上写真;長浜駅始発姫路行の列車を待たせ、回送列車が先行して通過して行った。
上写真;神社の手水舎の蛇口は、その名前の通り(蛇)龍の口である。当然、蛇は実在だが龍は架空の存在である。その蛇と龍は八岐大蛇のように混同されて表現されることが多い。しかし手水舎では 角が有るし、見た目から龍である。龍が水神としての側面から崇められること、どのような背景があるのか、いまいちはっきりしない。形状的なことから云えば、例えば稲妻。雷とともに光る稲妻は、稲にとって穀霊を刺激する現象(光=日=火)である。大地を潤す水をもたらすと共に光る稲妻は、見た目が龍の姿のような光跡で、龍神の降臨を思わせる。
しかし神格化した龍は、どこから出たのだろうか。2例ほど参考例を上げてみたい。まず「古事記」における海幸彦・山幸彦の話である。山幸彦は海幸彦の釣り針を探しに出掛けた先が綿津見神之宮(龍宮の祖形)である。そこで山幸彦は綿津見大神(龍神)から、水の満ち引きを操ることのできる玉を授かる。すなわち龍神は水をコントロールできる能力を持った神なのだ。 もう一つの例、、、密教の加持祈祷で請雨経法がある。「大雲輪請雨経(だいうんりんしょううぎょう)」に基づき、輪蓋龍王(りんがいりゅうおう)はじめとする諸大龍王に雨を願う。このような龍王の力を借りて天象を操作する修法は、インドや大陸方面の影響も大いに有ろう。しかしこの修法に龍王の力を借りているからと云って、なぜ龍なのか?の答えになっていない。龍が水神として崇められるには、日本古来の民俗的観点、古代神道や仏教など外来宗教感も習合して、何故かの答えを出すのは容易でないように思える。蒸気機関車も、水と日(火)の結合を力に変えて走っているのだ。
上写真;何処に蒸気機関車が写ってる? 鳥居の向かって左脚の処に、後ろを確認する乗務員さんと機関車のナンバープレートが写ってますョ。見てネ。
神社の参道には太鼓橋がある場合がある。渡れない程に急な湾曲の太鼓橋も有る。渡れない橋とは何なのか? やはり単純な装飾ではないだろう。聖域と俗世の結界感を明確にする意味も有るだろうが、それだけではない。「古事記」においては、伊邪那岐命と伊邪那美命は 天の浮橋 に立って国生みを行う。天の浮橋は虹という解釈もある。まさに太鼓橋は、その天の浮橋の具象化であろう。名前の太鼓であるが、これは雨=龍神=雷=太鼓 という類感呪術に繋がっている。 リヒャルト・ワーグナー作曲の【ラインの黄金】において、神々は天上の神々の城へ虹を渡って入城する。虹は神々のイメージに近いのかもしれない。
上写真;土川を渡って行く。 土川は長浜市常喜町の熊岡神社付近に発し、琵琶湖に注ぐ川である。地図で見ると、川は自然では有り得ない直角に折れ曲がる流れをしつつ琵琶湖に西進して流れている。その川の筋は、用水路として整備された証である。述べ延長距離は10 Km にも満たない短い川だが、湖北の人々を潤す貴重な川なのだ。
上写真;この建物を入れて、これまでにも何回か撮影している。普通の旧家かと思っていたら、実は造り酒屋跡と知って、改めて撮影に臨んだ。「銘酒あるところ名水あり」と云われるように、伊吹山や霊仙山という石灰岩質の山に蓄えられたミネラル豊富な伏流水に地下水は、酒造りに適したものだったようだ。この酒蔵の名前は伊部酒造、銘柄は星川と云った。しかし戦争の食糧難で発しられた企業整備令、その後の時代の変化で、もう30〜40年前に酒造りは止めてしまわれたようだ。
上写真;長浜市中野の集落の脇を、汽車が走り抜ける。この中野集落には、用水にまつわる逸話が残っている。中野の専宗寺の脇には 「世々開長者流水遺功碑」という、戦国時代の「せせらぎ長者」の功績に感謝の意を示した石碑が立っている。ただ、この長者の実名が分からない。それどころか実在したかどうかも分からない。「せせらぎ長者」とは、フィクションとノンフィクションの狭間に存在する地元の名士である。この長者には、3つの逸話が有る。
一つ目、、、浅井郡の浅井長政の父である浅井久政が、伊香郡の井口弾正に高時川の伊香郡の井堰より上流に取水口を設けるために談判になった。その時、井口弾正は拒絶するために無理な要求を出した。しかし「せせらぎ長者」が井口弾正の要求通り多くの貢物を渡して、井堰の設定場所を地元より上流に設ける、いわゆる「懸越し」承諾させたという話。
二つ目、、、上流の餅ノ井から中野村まで用水路を引いたが水が流れて来ないため、村の娘が生贄となり龍神に身を捧げるべく、用水路に身を投じた。そのお陰で用水路の工事も完成し水は流れたが、完成前夜に「せせらぎ長者」は水路の守護神となるべく割腹し、妻も身を投げた。
三つ目、、、引いた用水路に水が流れて来ないので「せせらぎ長者」が落胆していると、村の松前姫という娘を生贄にせよ、というお告げが聞こえた。娘を生贄にすることは拒んだが、その話を伝え聞いた松前姫は、自らの命を絶つ。その時から用水は中野の方に流れるようになった。 その後、せせらぎ長者は桃酢谷の泉の近くにいつからか分からないうちに住むようになった虎御前という娘と結婚する。住人の間で虎御前は 死んだ松前姫の生まれ変わり、という噂が出る。やがて虎御前は子を産むが、産んだ子は全て蛇(龍の変容だろう)であった。嘆いた虎御前は、淵に身を投げて自ら命を絶つ。
どれも、この地が水に難儀した故に生まれた話である。土地に伝わる昔話には、この地の昔の民の生活を知るヒントが詰まっているのだ。今の虎姫という地名、駅名は、その虎御前という姫の名前由来である。汽車の写真は、その姫様の名前が付いた虎御前山からの撮影である。