■ 令和元年(2019)年10月20日 、滋賀県大津市今堅田
野神神社例大祭(俗称、きちがい祭り)を 奉拝・撮影してきた。
所見、内容とも素晴らしく、神秘的かつ謎の多い祭礼であった。謎とは、、、列記すると、野神神社は、野上という旧地名から由来しているなら、野の神様の祭典とは一概に言えない。野ノ神様のおまつりの目的の時期からして、遅い。松明行列は、元は虫送りだったのだろうか?御祭神の勾当内侍は、御霊信仰だったのだろうか?野の神様なら、凶作をこの地で入水した勾当内侍の祟りと考えたか?琵琶湖の龍神(水神)としての神性は無かったのだろうか?どれだけの行事と信仰が習合、混ざり合っているのだろうか?
行事は午前10時からの祭典に続いて集落内をまわる渡御行列と当屋の引き継ぎ式、そして午後08時から集落内をまわる松明行列の二部構成であった。神社の名称は「野神」と付いているが、一般的に考えられる「野の神の祭り」とはニュアンスが異なるように感じた。まずお祭りの行われた時期の点。一般的な「野の神様のまつり」は、神宮祭祀に例えて云うならば『風日祈祭』の頃、すなわち夏期に行われるのが通例であるのに、ここの祭礼は秋季、すなわち『神嘗祭』の時期に行われているという事。現地でお訊ねしたところ、山の神との循環という想定どころか、山の神をお祀りもしていない。これは琵琶湖湖畔の集落ゆえ、集落内に山が無いからもっともでもあるが。
そこでこのお社の御祭神について記してみたい。御祭神は南北朝時代、南朝の忠臣として戦いそして戦死した新田義貞公の愛妾である勾当内侍である。彼女は北陸戦線に出立した義貞公に堅田に留め置かれたが、転戦する新田義貞に会いに出掛け、越前浅津(現 福井市浅水町)で義貞の戦死(延元三年七月;1338年)を知る。それ以降に勾当内侍がどうしたかは諸説(※)有るが、とりあえず今堅田で義貞公戦死に堪えられず、気がふれて琵琶湖に入水して亡くなった(延元三年九月)、という説で書く。ここの祭礼の第一部(渡御行列)の最後に、御神饌を放り投げるという荒っぽい行為や、第二部(松明行列)で「火事や火事や」と叫びながら道行するのは、気のふれた様を表しているというのだ。もしこの祭礼が夏期の『風日祈祭』の頃に行われているのなら、ちょうど虫送りで実盛人形が出るが如く、無念の死を遂げた勾当内侍が作物などに祟るのを払攘の儀礼とも思えるのだが、『新嘗祭』の時に行われているということで、鎮魂と感謝の祭礼になっているのであろう。もっとも祭礼の時期が昔と変わってしまっている可能性も否定できないが。夜の松明行列では琵琶湖湖畔の御旅所で琵琶湖の水を汲み、野神神社まで持参し到着後の祭典で、琵琶湖の水は勾当内侍のお墓と伝わる磐座に注がれる。この神社に戻ってから、勾当内侍の墓前での祭礼が松明の灯りだけで行われて神秘的かつ不思議な空間であった。 。
この神社の紋は 「新田大中黒」という新田義貞公の家紋であり、野神講講員の裃も同様の紋が付き、まるで南朝の新田軍に参戦しているかの如くで興奮した。
(※)勾当内侍のその後の諸説、、、髪を切って仏門に入り、嵯峨野の往生院(現 祇王寺)で終生 義貞公の菩提を弔って生涯を終えた、という説。新田義貞公の出身地の上野新田荘内武蔵島柊堂で晩年を過ごした説。そして、気がふれてか捕縛を逃れてか、今堅田で琵琶湖に入水した説。この三説があるが、番外として【太平記】のフィクション説まで有る。
参考書;「新田一族の盛衰」久保田順一著;あかぎ出版
「上州 新田一族」奥富敬之著;新人物往来社
(今堅田の皆様には大変お世話になり、どうもありがとうございました。)
■ 渡御行列
上写真;湖族太鼓の奉奏。野神太鼓という曲で、義貞公の出陣を表現する。
上写真;渡御は小唐櫃、神職、竹に幣、野神大神掛け軸、太鼓、御神饌唐櫃、御膳(榊に幣・鯉・豆)と続く。
集会所に到着すると、御膳を放り投げる。この荒っぽい行為が、キチガイを現すとか。
上写真;当屋の引き継ぎ式。手前に送り当屋、軸の前に受け当屋。
■ 松明行列
上写真;勾当内侍の墓石に事前に土盛りし、載せてあった石が降ろしてある。それを再度、儀礼中に載せてから琵琶湖の湖水をかける。そして祭文奏上である。
石を載せ直すのは、それによって祓い清めて神威更新を行っているという所作なのだろう。琵琶湖の水をかけるとは、清めの水なのかあるいは御祭神に琵琶湖の龍神、すなわち水神としての性格も有ったのではないだろうか。