■ 令和02(2020)年01月 撮影、滋賀県長浜市余呉町東野
東野は歴史的には歴史の分岐点となった処である。大津城主の京極高次は関ヶ原の合戦のおり、家康に内通しつつも表向きは西軍に属していた。慶長5(1600)年8月、大谷吉継の西軍と共に家康側の加賀前田家を攻めるために、北陸路に展開した。しかし石田三成から京極高次に、美濃に軍を展開するように命がきた。高次は北国街道を南下し、余呉湖北部の東野まで戻ってきた。ここの分岐点で木之本方面から美濃に軍を進めれば、完全に西軍。余呉湖を西に転じれば居城の大津方面へ、海津湊から舟で大津湊まで琵琶湖を渡って着く。ここで高次は、大津城へ戻り東軍に属す決意を露わにした。そして西軍を一手に引きつけ、やがて開城したものの、関ヶ原の合戦後は家康から功績を認められたという。
高次が美濃に軍を進め 家康を迎え撃っていたら、歴史はどうなっていたか判らない。そんな歴史の分岐点が東野である。
さて、その東野は現在の人口が400人ほどで、戸数は140戸ほどである。それが七組に分かれて、毎年順番にオコナイの当番組となる。その中から当家となってオコナイの塔主となるのだ。今年は七組が当番の年であった。
訪問させて頂いた前日に、既に御餅つきは終わっており、大鏡餅や星の餅(末社用)にマイダマが仕上がっていた。なお現地ではオコナイを「神事(じんじ)」と称して、厄年祓いや新成人のお祓いも同時進行で拝殿にて、宮司さんによって執り行われた。
※突然の訪問にも関わらず、東野の皆様のご親切に感謝申し上げます。
上写真2枚;社参前。東野豊前守、八幡神社、白山神社の軸がかかって、祭壇が設けられている。社参前には高台の茶碗にて梅干し茶を頂く。東野豊前守は、この地の産土神様のようである。
上写真3枚;社参は鉦太鼓で囃しながら進む。大鏡餅は木を井桁にして薦(こも)で包んで背負う。
上写真3枚;拝殿に収められた大鏡餅。餅花は拝殿柱に荘厳される。神事は通例通りであった。
上写真;神社からは次の当屋さんが大鏡餅を背負って、次年度の当屋さん宅に向かう。そこで鏡開きが行われる。