日本!(オコナイ)
No.28 (番外)オコナイと水問題

撮影場所&日;滋賀県長浜市高月町 西野&磯野、 平成22(2010)年3月22日

■ 西野水道
湖北(滋賀県)における平成22年度のオコナイ(神仏儀礼)は、終了している。“餅のオコナイ”と云われる湖北地方においても、現在の高月町(旧伊香郡、現長浜市)の特定地域において、御鏡餅を成形する曲物(まがもの)をオカワ(オトワ、ユルワ、ワなど)と呼び、それを神聖視し司祭者の象徴として一年間宮守の家で祀る。御鏡餅に神霊を憑かせる依代であるが、その美しさ神々しさに魅せられてしまっている。そのオカワの存在意義として、印象深い論文がある。青山淳二氏の「湖北のオコナイとオカワ(日本民俗学誌No.187 )」である。土地の支配者が
村民へ稲作の積極的な勧農を図るにあたって、水利問題の解決のため水利事業を行いつつ、有力農民を当人として差定し、農民を掌握するシンボル、という意味のことを書かれている。近江の各地における郷の祭りが水利権を守る結束の組織がバックボーンにある点を鑑みても、オコナイそしてオカワと水の問題は、大きな関連があるのかもしれない。そのようなオコナイが伝承されてきた歴史を考える場合、水問題の遺構がオコナイの地に有るのか?その点が気になっていた。今日は、その遺構を訪ねる撮影であった。水利権とはニュアンスが異なるが、先月11日に撮影させて頂いた西野において、「西野水道」という遺構が有るので、オコナイの時に知り合ったK氏に御案内いただいた。水道とは云うものの、導水路というより排水路である。西野の地は三方を山に囲まれた、ちょうど扇の要のような場所にあり、余呉川が氾濫すると田畑が水に浸かってしまう土地であったという。記録に残る江戸時代の文化4(1807)年、天保3(1832)年、同7(1836)年の大洪水と飢饉で西野は壊滅的な打撃を受けた。この惨状を救うには琵琶湖寄りの西山を掘り抜き排水路を作って水を逃がすしかないと、時の西野充満寺住職恵荘は考えた。彦根藩領であったことから藩主に掛け合い、周辺の集落の了解を得て、石工や周辺集落の農民の援助もあって、工事は天保11(1840)年から弘化2(1845)年まで多くの労力と経費をかけて完成した。資金の1275両は西野の100軒ほどで出し合ったため、集落は疲弊したという。水道は長さ220mで、高さは最大部で2m、幅1.2mだが、低い場所は1.5m程である。内部にはノミの跡が残る箇所もあり、方向とレベルの変更に曲線や段差もある。
内部は真っ暗で、水滴も落ちてくることから、長靴、雨合羽そしてヘルメットに懐中電灯が必要である。実際、天井の岩に5回くらいヘルメットを打ちつけたから、無かったら流血ものであった。真っ暗な水道を抜けると、目の間には真っ青な琵琶湖が広がっており、眩しかった。
現在、水道トンネルは三本並んでいる。北から、この江戸時代のトンネル、中央に昭和25(1950)年完成のもの(現代は歩道)、南に昭和55(1980)年完成の現在使用中の水路である。氾濫した余呉川は、現在の大水路が完成時に水道に併合されたそうである。
このような水道(排水路)の遺構の存在は、オコナイの地において水問題(洪水だが)に苦しむ人々の有り様が分かって、意義深いことであった。

《参考ページ》西野のオコナイ

上写真4枚;水道への導水路から内部へ。内部は真っ暗なので、フラッシュを使用し撮影。先を行く K氏の案内が無ければ、恐いような所だ。

上左写真;昭和55(1980)年に完成した三代目の現・水道から、水が琵琶湖へ流れ込む。

上写真;西野水道入り口付近から、西野の集落方向を望む。この辺り一帯が、洪水被害にあった場所だ。


■ 磯野の用水路

戦国時代には、強固になってきた村落結合を背景に高時川筋では、大井や下井など井堰を中心に井組が組織されていたようである。そして旱魃毎に生じる井堰に関する紛争にたいして井奉行も置かれたようで、水に関した紛争が集落間で重大問題になっていたようである。この大井・下井を構成する組は、現在オコナイが行われている集落に一致している。かつての水問題で結束していた組が現在も行われているオコナイの集落に一致することは、オコナイが水問題が背景に有ったことを示唆している。ただ、オコナイの座において水利問題が話し合われたかというと、それは違うと思う。オコナイの撮影で座の中心となる本膳を拝見しても、何処のオコナイの本膳でも厳格に粛々と静寂のままに居住まいを正して進行しているからである。本膳の間に盃ノ儀が行われるなど、膳とはいっても儀礼の一部であるから、論争や私語も慎む座である。オコナイに水問題が背景に有ると思えても、それは集落内の結束の証の場がオコナイという意味であろうと考えている。磯野においてオカワに二本付ける牛玉宝印は今でこそ無地の和紙であるが、赤尾のように集落内の人の名を署名捺印して巻く処もある。一種の誓紙であるが、磯野もかつてはそうであったろうと思う。ひょっとしたら血判でも押した例も有ったかもしれない。その磯野のオコナイで社参する赤見神社の御祭神の神格が、ひょっとしたら水の神様かもしれないと拙HPにおいて記した。集落センターにおいて、高時川において磯野の人々が水を引いてくるのに井堰の井落としをしている昭和15年の写真が掲示されていた。
上記したように昔からの井組の存在や井落としを考えると、現在においてオコナイが行われる磯野における水利がどのようになっているか、調べる必要を感じて訪れたのが昨日である。残念ながら戦前の井堰の痕跡は認めることが出来なかったが、磯野の集落内には、5〜6年前に整備された水質保全公園があった。井堰の復元かと思ったが、ちょうどお会いした上○氏にお話を伺うと(ありがとうございます)、汚れた農業用水を濾過して琵琶湖へ流す施設だという。余呉川に平行するように流れる赤川を途中から農業廃水路としてバイパスを作って水質保全をして琵琶湖に戻しているのである。戻しているとは、現在の農業用水は琵琶湖から取水してそれを一旦、余呉湖に溜める。そこから「湖北土地改良区」の地域一帯の農村地帯に農業用水路で水を分配しているという。高時川からの限られた水を集落間で奪い合っていた時代は、はるか歴史の世界の事である。現在では無尽蔵たる琵琶湖の水が上手に利用され、そして琵琶湖へ戻されているのである。戦国〜江戸時代〜太平洋戦争期頃まではオコナイの組織イコール水問題の結束という側面が有ったであろう。しかし、その問題からは解放されたのである。オコナイは、世代を越えた集落内の男性によるコミュニティの場、若い世代にとっては日本人としての礼儀作法を学び郷土愛を育む場として機能していくのだろう。
木造の井堰は、役目をしない場合には壊したりしていただろうから、今 痕跡を探すのは無理であった。

《参考ページ》 磯野のオコナイ

上左写真;磯野水質保全施設(公園)、

上右写真;磯野付近の田畑の中を走る用水路。


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