※ 磐座、磐境、岩屋などの総称を「イワクラ」と表記しました。
■ 滋賀県
波久奴神社は 滋賀県長浜市高畑に安座する神社で、御祭神は 高皇産霊神であるが、配祀神として 物部守屋を祀っている。
里宮が高皇産霊神を御祭神としながら、配祀神としての物部守屋を奥宮である岩屋に祀っている。
高皇産霊神は明治以降に祀られた可能性もあり、元々の御祭神は物部守屋だったかもしれないが、分からない。
ところで何故、物部守屋がこの地に祀られているか?その方が興味深い。この岩屋(磐境か)の存在する場所は、近江浅井氏の所領であり本城の小谷城の東北部で山続きである。
ところで武将は出生が貴種であるか、その血スジを重んじる傾向が有った。
はたして近江浅井氏はと云うと、古代から物部姓守屋流と称した在地豪族であり、祖は物部守屋に繋がるという説がある。もっとも現在では否定的らしいし、浅井長政などが自称していたか不明だが。
ともあれ近江浅井氏が物部守屋に繋がる血筋であるとの説が仮設でも存在し、その場所に物部守屋が籠ったという岩屋が存在する、、、これは無縁の事象ではないだろう。
現在では忘れられた結びつきだが、両者を結び付ける考えがこの岩屋に奇譚を生み出したと考えた方が良いのではなかろうか。
物部守屋はともかく、小谷城に対する岩屋の方角を見ると、完全に鬼門に存在することに驚く。近江浅井家が健在の頃、この岩屋(または磐境)内部で魔を祓う祈祷など修法が行われていた可能性も有るかもしれない(例によって私独自の勝手な想像だが)。
余談だが里宮の所在住所は長浜市高畑だが、岩屋は長浜市池奥である。物部守屋が造ったという奇譚のある溜池の西池の奥に存在する集落だから、池奥なんだろう。分かり易い住所だ。
( 滋賀県長浜市高畑に鎮座する 波久奴神社さんの御祭神は高皇産霊神であるが、配祀神として 物部守屋を祀っている。
物部守屋大連は社伝によると、用明天皇2年(587年)に蘇我馬子に敗れたおりに自身の領地である当地に潜伏し、蘇我氏の追跡を逃れる為に更に同年10月に小谷山東峡の岩窟に隠遁した。その岩窟を「本宮の岩屋」と呼ぶという。)
上写真3枚;藤ヶ崎龍神社(近江八幡市牧町)
藤ヶ崎(藤崎)龍神社の琵琶湖湖岸に、湖岸の注連縄の巻かれた巨石が鎮座している。
この巨岩の背後の山の斜面に龍宮城・内宮がある。この巨岩、注連縄が巻かれているが結ばれていないので、夫婦岩ではない。かといって龍宮城・内宮に祠が存在するから磐座でもない。
つまり龍宮城の門扉だろう。依り代(神籬)と云えなくもないが。
この藤ヶ崎龍神社には龍宮城が存在し、龍宮城を訪れた俵藤太秀郷が貰った米の尽きる事のない俵にあやかり、豊漁祈願の希求や各種現世利益の受益目的が考えられる。
龍宮城は水底ではなく、岩の割れ目に存在し、女性器のような外観所見であった。内部に入って祈ることは、子宮に入ることのモドキであって、そこから出ることで、赤子が生まれるが如く魂の新生と更新がなされている。
龍宮城を設定したことで、永久の生命の希求も願った可能性がある。近江の昔話や伝承には龍神が多く登場するが、ここの龍神は龍宮城の竜王である点で、他所と異なる特異性がみられた。
龍宮城の門扉たる巨岩の背後の空に、昇竜のような雲の動きがみられた。
標高268mの猪子山の山頂に岩窟があり、その中に奈良時代に安置されたと伝わる十一面観世音菩薩の石像が祀られています。観音像には、坂上田村麻呂が武運を祈願したという奇譚がある。
観音堂は磐の割れ目を磐屋としており、背後にある巨石は「天鈿女命」とされ、神仏習合状態である。天鈿女命は女性器を出して踊ったという。磐屋の形状が、まさにそれっぽく見える。
この観音堂周辺には他にも巨石が点在している。
北面十一面観音が頂上に鎮座する猪子山の麓には岩船神社が鎮座し、文字通り岩の船状である。
神社の説明看板によると、神亀五年(728)年、高島比良の山から比良大神(白鬚明神)が乗船してこの地に渡ってきた船だとのこと。社殿は渡湖を先導された津速霊大神を祀るという。
この山のいたる所に古墳が開口しており、弥生時代には貴族の葬送の地だったのだろう。この岩船も古代人の霊を運ぶ船としての磐座だったのかもしれない。
岩が露出した赤神山は、典型的な神奈備山の形状で美しい。山を守護するのが天狗で、天狗は異界の住人ながら異能を持つ故に修験者の例えと思われる点がある。天狗の赤ら顔は異界の住人の象徴であるが、山の名前の由来かもしれないし、岩に当たった夕陽が赤く光るから赤神山と呼ぶのかもしれない。いづれにせよ異界感ある霊山である。
山の中腹まで車で上がることができ、駐車後に階段を登って行くと夫婦岩という巨石の間を通り抜ける参道となる。参道=産道という例えを実感できる、生まれ清まり の岩場である。
滋賀県東近江市五個荘石馬町、繖山(きぬがさやま)の頂上に鎮座する 雨宮龍神社へ向かった。
不思議な記号(?)、神代文字(?)、ペトログリフ(?)の刻まれた巨石の背後の階段を更に30段ほど登ると、社殿と磐座の鎮座する頂上、標高297m に鎮座する 雨宮龍神社境内に出る。
かつては八大竜王社、あるいは降雨明神とか雨明神と呼ばれてる、雨乞いの地だった。
この神社の由緒は、神社境内の案内看板を参考に下記する「神社は推古天皇時代の創始で、雨乞いの実施の社伝のある石馬町をはじめ宮荘町、金堂町、日吉町、川並町、七里町、竜田町、北町屋町、塚本町、石川町などの諸町を雨氏子とする。
この神の出現の地は当山の麓の伊庭荘湖水の辺りである。
社壇は湖面に向かう。聖徳太子当峰に安置するという。
文政11年6月の大干ばつの時は飲料水にも事欠く始末であったが、石馬寺住職が社頭で大般若経理趣分を真読すると、一匹の白蛇が出てきたので僧が持っていた鉄如意で一撃し社殿に投げつけた。すると甘雨が盆を覆すように降ったとのことである。」雨の龍神の化身である白蛇を一撃するとは、誠に過激な加持祈祷である。験なければ容赦せぬ、とばかりの無慈悲な祈念に驚く奇譚だ。
以来、この磐座の場所が 雨乞いの祈祷場所となっている。そう、不思議なことがあった、、、磐座を撮影していたらそれまで晴れていたのに、急に小雨に降られたのだ。私はその時、雨乞いをしてなかったが、、、。天気の替わり易い場所なのかもしれない。
本堂裏には「六処権現影向石」と呼ばれる、岩が背負ったように迫り出した磐座がある。
天地四方を照らす石とされ、武内宿禰がこの磐に向かって長寿を祈願し、三百歳の長寿を全うしたという。
そして本堂の西の三仏堂を挟んだ隣にある武内宿禰を祀る護法権現社の北側には、修多羅岩という四角い2つの巨石が鎮座しているが、案内看板によると武内宿禰の御神体だという。。
胡宮神社の裏山の青龍山には胡宮神社の奥宮としての磐座が、鎮座している。
この磐座が元々の祭祀場であり、麓から遥拝するために胡宮神社社殿が設けられた。
この磐座は胡宮神社の奥宮というだけでなく、多賀大社の奥の院と呼ばれた時代も有るという。
頂上付近は胡宮神社の社殿が設けられてから、神聖な境界(いわき)として一般人の立ち入りが禁止されていた。この磐座の少し下の湧水の出る場所は御池と呼ばれ、身や供物を洗い清めてから磐座に詣でたという。なおこの御池では、旱天(ひでり)の時に雨乞いを行った旧跡でもあるという。
磯崎神社の北側の湖岸に、写真の磐座が鎮座している。形が似ている(?)ことから、烏帽子岩と呼ばれている。この烏帽子岩には、『日本!(近江の祭・火祭)〜 No.61』に記したような昔話が伝わっている。下記に再掲しよう・・・
磯という村にイケメンが居て、村娘に人気だった。しかしそのイケメンは村娘を相手にせず、漁で 出掛ける白髭の娘とねんごろになり、祝言を挙げることとなった。それを知った村娘 は激高し、 イケメンを呪い始めた。するとイケメンは原因不明で死んでしまったのだ。死と同時 に磯の湖岸に 一夜にして岩ができたため、イケメンが岩に変わったと噂された。許嫁が死んだこと を知った白髭の 娘も後を追うように琵琶湖に入水してしまった。すると娘の姿は岩となり、磯の岩ま できて一つに なった。村人たちは、白髭明神が二人を憐れんで岩となって結んでくれたのだと、話 したという。