日本!
No.98 イワクラ(三重県機ァ∀族了蓋機ァ

※ 磐座、磐境、岩屋などの総称を「イワクラ」と表記しました。

■ 三重県 機

上写真3枚;潜島海蝕洞門 (伊勢市二見町)
夫婦岩として有名な二見興玉神社の東方 約2Kmの神前岬に、神格化された洞窟がある。

潜島と云う名前だが島ではない。しかし荒波と岩壁に阻まれて、通常は徒歩で行けないという場所である。ただ大潮の引潮時のみ徒歩で行けるということで、注連縄張り替え神事が一年一回、行われているという。ちょうど該当日に訪れたが人の姿は無く、しかしながら注連縄は新しく見受けられたので、特別な神事も行われず潮と天候具合で行われたのかもしれない。この沿岸一帯では神宮さんに共進する御神饌確保のための贄海神事が、かつては行われており、その関連とも考えられる。

しかし現地に行って洞窟内部から海側開口部風景を眺めると、東方向に開口している状況を見て、二見興玉神社と同様に、太陽崇拝の祭祀遺跡の一種ではなかろうかと思った次第である。

洞内は直前まで海中に没していたためか、天井から海水が滴り落ちてくるし足場は悪く、しかも真っ暗な、まるで死の世界である。そこから開口した外を見ると明るく活力に満ちた生の世界に思えた。

上写真2枚;丹倉神社( 熊野市育生町赤倉 )
花の窟神社から5Kmほど西の山中に、丹倉神社という磐座が存在している。拝殿も本殿も無く、巨石が高倉下命の御神体として祀られている。高倉下命は和歌山県新宮市の神倉神社の御祭神と同じであるが、むろんこの巨石が御神体、あるいは祭祀場となった当初からそのように考えられていたかは知る由も無い。磐座は林道から階段を降りた場所に鎮座しているが、その階段の手前約50mの林道脇に清水が流れて「潮掛け場」という表示がされている。清水だが、海水での禊を想定した場所なのだろう。深い山中の この祭祀場、いつ頃にどのような人が祀り始めたのか、興味深い。

上写真2枚;花の窟神社( 熊野市有馬町 )
『日本書紀』に「伊奬冉尊(いざなみ)、軻遇突智(かぐつち)を生むときに灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる」 とある。つまりこの場所こそ伊奬冉尊の墳墓の地と云われており、境内には軻遇突智の墳墓も存在する。共に岩壁が墳墓とされており、向かい合って存在している。なお、伊奬冉尊の墳墓とされる岩壁は窟(=岩屋)という程の洞窟ではなく、深さは50センチほどの凹みである。墳墓とされているが伊奬冉尊の御神体でもあるから、この岩壁自体が神様なのである。岩壁からは注連縄が渡されており、年に2回(2月10月)に斎行される「御綱掛神事」では道路を挟んだ海岸方面まで奉仕者が出て注連縄を引っ張る。民俗学者の野本寛一氏は、海の彼方から来臨する神々が依る依り代、と述べておられる。つまり、常世と現世の結界なのだ。実際は水葬の習俗が行われていた拠点であった可能性も、指摘されている。

上写真2枚;産田神社( 熊野市有馬町 )
花の窟神社から西に1.3キロの場所に、産田神社が鎮座している。伊奬冉尊が軻遇突智を生んだ時に女陰を焼かれて死んだ場所と云われる。しかし軻遇突智を生んだということで、産田神社という名前のお社である。死よりも生を選択した神社名なのが興味深い。本殿の左側には「神籬」と云われる場所がある。社殿が設けられる前の祭祀跡とも云われているが、なにせ簡単に移動できる大きさの石だ。どの位の時間が経過しているのか、疑問に思う。

上写真2枚;山の神( 熊野市有馬町 )
花の窟神社から北西に2Kmほどの山中に、山の神を祀る祭祀場が存在する。磐が御神体ではないから、磐は磐座または人と山の神を繋ぐ祭具としての磐座と思う。磐座前には奉納された木彫りの男根が並んでいた。実際の祭典を拝見してみたいものだ。

上写真2枚;古神殿( 紀宝町神内 )
現地の看板には「原始時代の神殿 禰宜姫様がご託宣、神内神社の本宮」と掲示されていた。巨岩の塊は複数の岩の集合体のようだが、そのままの岩なのか人工的に組み合わせたのかは分からない。原始時代って何時か曖昧だが、産田神社付近では弥生時代中期の土器が出土しているらしいので、やはりこの「原始時代」も弥生時代を指すと思っていいのかもしれない。弥生時代、この周辺に住む人々がこの場所を祭祀場として、禰宜姫様(神憑る依りましの巫女)が祭祀を行っていたのかもしれない。現在、磐の中ほどに風化して仏尊の判別つかない石仏が祀られている。

上写真;神内神社(紀宝町神内)
古神殿が本宮なら、現在の神内神社は摂社か末社ってことに、あるいは里宮ということだろうか。比較的開けた場所の古神殿と異なり、僅か150mほど北上しただけの神内神社は薄暗い森の中に鎮座している。小川に降りる階段もあり、かつては小川で禊するなどして参拝した名残が残っている。本殿は岩壁の窪みに祠が安座してあるが、かつては岩壁自体が御神体だった可能性もある。とは云え、神社となったのは平安時代後期で、それまでは修験者の修行の場として「聖社」が建立されていたという。現在、御神体は天忍穂耳尊である。

上写真左右;大上神社( 紀宝町鵜殿 )
 大乙貴命を御祭神とする烏止野神社本殿右側の山の斜面の階段を上がると、約1分ほどで饒速日命(にぎはやひのみこと)を御祭神とする大上神社がある。村人は烏止野神社の元宮ということだが、御祭神も異なりはっきりしない。中世にこの周囲の荘園の管理を命じられた中世鵜殿庄司である鵜殿氏が居城近くに氏神として祀ったのかもしれない。むろん祭祀場としてはもっと時代が遡るかもしれない。階段を上がると左右に磐座が存在し、それぞれの前に祭祀場が設けられている。左右で陰陽なのだろう。


■ 和歌山県 機

上写真3枚;神倉神社( 新宮市神倉 )

熊野速玉大社の摂社「神倉神社」は、新宮市街地の西方にそびえる神倉山(権現山)の中腹、標高120mほどのところに鎮座しており、熊野三山に祀られる熊野権現が、初めて地上に降臨したという。

「熊野権現御垂迹縁起」(一一六四年長寛勘文)はじめ諸書によると、熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇五十八年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したという。このゴトビキ岩は「日本書紀」においては 天磐盾 として登場し、磐余彦(後の神武天皇)が登頂されたとも記されている。現在、神倉神社の御神体は「ゴトビキ岩」と呼ばれる巨磐で、高倉下命(たかくらじのみこと)と天照大神(あまてらすおおかみ)をお祀りしている。高倉下命は神武東征時に聖剣を渡して援護し、大和への進軍を支援する役目を果たした。

ゴトビキ磐までは麓の鳥居をくぐって、源頼朝が寄進したと伝わる538段の石段を登っていく。登りも一段一段の間隔が広く大変だが、下りは段下が見えない程ほど急なため、結構スリリングだ。ましてや雨で濡れて滑ろうものなら、かなり恐ろしい階段だ。熊野地方では、このゴトビキ岩を男根にみたてて、花の窟の凹を女性器のみたて、陰陽と考えていたともいうが、詳細は不明だ。


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