上写真;滋賀県長浜市(旧浅井郡)菅浦の集落。四足門に護られた集落。集落内には両部鳥居を配し、淳仁天皇を御祭神とする須賀神社が鎮座する。
上写真;滋賀県の地図に定規を置いてみた。京の鬼門方向に、鎮護の比叡山延暦寺が。さらに北東を見ると、菅浦には怨霊である淳仁天皇の舟形御陵が。
滋賀県長浜市、旧浅井郡の菅浦へ祭りの撮影に出かけた。祭りとは別に、そこで見かけた光景や情景に唖然とした。
祭りは須賀神社で行われる。御祭神は、淳仁天皇。 えっ?!淳仁天皇っ? 驚いた。怨霊とされた天皇が祭神である。
そして淳仁天皇は淡路島で御隠れされている事実が99%であるのに、ここには祭神扱いだけでなく淳仁天皇御陵まで存在するのだ。おまけに参道には陸地には珍しい、両部鳥居。そして集落には四足門という菅浦を護るとされている門の遺構が残っている。
疑問がフツフツと涌いてきた。
まず、なぜこの地に平安京を呪った怨霊とされた淳仁天皇が祀られているかだ。
淳仁天皇の怨霊について、「廃帝は国土を呪い、そのために日照りが多く、大風が吹き、世の中が荒廃して飢え死ぬ人が多かった」と『水鏡』では伝えているという(田中聡著「妖怪と怨霊の日本史」)。憤死した後、怨霊となって国土を呪い朝廷に恐れられたのが淳仁天皇である。怨霊を御祭神として祀り上げることで神と化すのが御霊信仰だが、菅原道真のように怨霊が天満宮として全国に広がり、勉学の神様となった例も有ることはある。しかし淳仁天皇は、怨霊のままである。
平安京は桓武天皇が、政変で憤死して怨霊となった政敵の祟りを恐れて、宗教者や陰陽師らのアドバイスを得て呪術的な設計によって建設した街だと云われている。中国の風水による四神相応という都市造りを参考にして選ばれた場所が平安京となった土地である。その都市には外部からの鬼や怨霊の侵入や攻撃を防ぐ防御装置が寺社や門として張り巡らされている。鬼門というのは、名の通りに鬼の侵入してくる方角を云うが、北東の艮(うしとら)がそうである。内裏の鬼門方向には比叡山があり、桓武天皇は鬼門からの鬼の侵入を防ぐ目的で、内裏の北東方向にある比叡山に延暦寺を創建して王城鎮護の役割を託した。
以上、ここまでは既存の説である。下記は、滋賀県長浜市(旧西浅井郡)菅浦という土地と内裏を結ぶ呪術的な線の私見である。むろん想像であることは、ご容赦願いたい。
菅浦には「四足門」という門が東西に二軒 残っており、これはいざというときに流通の検閲などをする要害の門だという解説板が掲示されている。この門は琵琶湖に面した地形で水運を生業とする菅浦の地には、物理的な要害の城門的な実用性が無いことは明白である。そして菅浦の須賀神社(保良神社)の御祭神が怨霊である淳仁天皇を祀る、御霊信仰であることも書いた。そして参道に立つのは、陸地では珍しい四足的な両部鳥居であることも特異である。以上のことから、中世から自治組織を運営している惣村の宗教的アイデンティティとして、他村から畏怖させるために怨霊を御祭神として祀り 怨霊の霊威を逃さぬために四足門と両部鳥居に封じる呪術的な門であるとも思われる。
4月の須賀神社の春の祭礼から帰宅した後の想像では、上記の如くであった。その後に再訪してきたが、上記の考えはどうも釈然としなかった。
で、ひょっとして?と思って 滋賀県の地図の上に定規を置いてみて、あまりに想定に一致する状態に驚いてしまった。 上記地図をご覧頂きたい。定規の上端延長上の赤い箇所が京都市で、内裏所在地。定規の3cmの位置が 比叡山延暦寺
で、内裏の鬼門である艮(うしとら)の方角である。そして その延長線上、つまり定規上端の右延長線上に位置するのが、なんと菅浦である! 内裏から鬼の侵入する方角と云われる鬼門の延長線 上を辿ると菅浦があり、そして怨霊となって平安京を脅かした淳仁天皇を祀る神社があるのだ。これが偶然と云えようかっ?!既存の説では、平安京の鬼門守護の比叡山延暦寺の存在までは云われることがあっても、さらに鬼門方向に伸ばしていくとぶち当るのが菅浦なのだ。淳仁天皇の怨霊が国土を呪ったために、平安時代に世の中が荒廃したという。菅浦が惣村として栄えたのは中世以降であるが、この地に淳仁天皇を祀ることはさらに遡るであろうし、平安京を呪術的に護るためには必要だったのではなかろうか。京の都の鬼門を延暦寺に護らせるとしても、漠然とした鬼や怨霊を塞ぐというのでは実効性が薄い。それで淳仁天皇という怨霊を鬼の代表として鬼門方向の菅浦の地に御霊として配置し、その抑えの呪術的装置を幾つか配置した。比叡山延暦寺だけでなく、同じ艮(うしとら)の方角の琵琶湖に浮かぶ竹生島宝厳寺もそうである。あるいは同線上に存在する両部鳥居を供えた白髭神社もそうであろう。後に惣村として菅浦が発展する頃となると、菅浦に四足門を作らせ、さらに参道に両部鳥居を配して、怨霊である淳仁天皇が都に祟りをなさないように塞ぐ呪術的装置を置いた。そう、菅浦の四足門は、都の呪術的装置の一つなのだという考えに達したのである。平安京ならいざしらず、中世惣村の頃に淳仁天皇の怨霊封じ?と思われるかもしれない。しかし明治維新の時、薩長軍が奥羽列藩を攻撃する時に、淳仁天皇の霊が奥羽列藩に味方しないように、明治天皇は崇徳上皇や淳仁天皇の怨霊鎮撫のために京都市内に白峯神宮にそれらの霊を祀っている。淳仁天皇没後1100年を経ても、淳仁天皇は怨霊の祟りとして恐れられていたのである。それらの事象からも、菅浦の地は京の都が平安であるように、淳仁天皇という怨霊を封じ込めていた土地であったと想像するのである。その呪術的な塞ぎの装置が四足門であるが、東西しか現在は存在が確認されていない。東西南北に存在したという説もあるが、南は琵琶湖であるし、竹生島の宝厳寺が塞ぎ装置となしていただろうから、南の四足門の存在は実在したか疑問である。
上写真;地図の上に定規を置いてみた。京の鬼門方向に菅浦の淳仁天皇舟形御陵。裏鬼門方向に南あわじ市の淳仁天皇淡路陵。そのライン上に、比叡山延暦寺や石清水八幡宮が、ピタリと乗る。
上写真;内裏(現在の京都御所は、里内裏の土御門東院内裏であるが)。写真は京都御所車寄せでの、五節舞。十二単で舞う。
上写真;内裏の裏鬼門、京を護る石清水八幡宮。石清水八幡宮が宇佐八幡宮から還座する云われは、下記の通りである・・・大安寺行教は宇佐宮で昼は大乗教を転読し、夜は真言密教を念誦し六時不断に三所大菩薩を回向し奉った。都に戻ろうとしていた行教の前に大菩薩が示顕し、都の近くに移って国家を鎮護したい、、、そこで移坐すべきところを示現を請うと、石清水男山の峯なり、との託宣があったという。このように神仏習合時代には八幡宮は、仏教色の強い八幡大菩薩をして顕れていた。
私見の続きである。京の鬼門の延長線上にあって怨霊を封じ込めたのが、菅浦(滋賀県長浜市西浅井町菅浦)であるというのが私見である。なぜなら菅浦には、怨霊となって平安京を脅かした淳仁天皇を祀る神社があるのだ。菅浦の四足門や、淳仁天皇を御祭神とする須賀神社の両部鳥居も、怨霊封じの呪術的装置であると思う故である。この考えによって、京〜延暦寺〜菅浦 を結ぶ、鬼門の呪術ラインがみえてきた。 と拙Blogに書いたら、HPにお寄り下さる凡さんから、南あわじ市の淳仁天皇の淡路陵が 裏鬼門 なのでは、とご指摘を頂いた。京の鬼門である北東の方角の反対側の南西は 坤(ひつじさる)と云って、やはり鬼の侵入路の鬼門にあたる。それで地図帳に、また定規を置いてみた。
鬼門である菅浦(淳仁天皇 舟型御陵)〜比叡山〜京(内裏)〜南あわじ市(淳仁天皇 淡路陵)が、ピタリと一直線に結ばれた! これはとんでもないことだ。偶然ではないだろう! 鬼門からの鬼、怨霊など魔障の侵入を防ぐのが比叡山延暦寺と云われてきたが、京に災いを成すそれら悪霊の祟りは漠然としていた。それが怨霊の代表格として淳仁天皇を指定することで、鬼を淳仁天皇に集約して塞ごうとした朝廷の意図がみえてきた。 鬼門の備えが延暦寺なら、では裏鬼門の備えは? 大原野神社や城南宮の名前があがることもあるが、比叡山延暦寺に双璧を成す備えというには弱い気がする。その呪術ラインを見れば、有るっ! 延暦寺に相当する山上伽藍を供えたお社が。石清水八幡宮だ。八幡大神は、かつては八幡大菩薩と云われるように、仏教色の強い神様だ。怨霊の備えには十分だ。 この呪術ラインをたどると、両部鳥居を琵琶湖の中に設置した白髭神社もライン上に位置する。石清水八幡宮、白髭神社の両部鳥居、、、これらが偶然と云えようかっ!?
朝廷が考えた京の鬼門・裏鬼門の呪術ライン、現在の「菅浦〜比叡山〜京〜石清水八幡宮〜南あわじ市」こそが壮大な防御ラインである。拙者に凡さんの指摘を加え、そのような想像が出来上がってきた。
上写真;同じく南あわじ市十一ヶ所の、市陵墓参考地。初埋葬の地と考えられている。宝亀3(772)年、光仁天皇は淳仁天皇の怨霊を恐れたのであろう、僧侶60人を派遣し、魂を鎮めたという。最初の埋葬地から後に現在の淡路陵に改葬したという説がある。
上写真;同じく南あわじ市志知中島の大炊神社、天皇塚。この地で亡くなられ、ここに埋葬されたという説もある。今でも住人によって、霜よけの「こも」が編んで埋葬場所と云われる杉の木の根元に掛けて、天皇の霊をお慰めされている。
京の内裏を中心に、鬼門方向に比叡山延暦寺を護りとして配置し、同線上の菅浦に怨霊の象徴として淳仁天皇を須賀神社の御霊として祀る。その菅浦には中世になってから四足門や両部鳥居を御霊の封じ込めのために更に配置した。鬼門方向から京に侵入する悪霊・鬼の類を淳仁天皇に集約し、集約させた悪霊を封じこめることで京を護ろうとした。そして裏鬼門は、京を中心に鬼門の反対側を辿ると、石清水八幡宮を経て、淡路島には淳仁天皇の淡路陵が存在する。両御陵の間には、湖や海が存在する。怨霊は水を越えられないという呪術性でもあったのかもしれない。ともあれ、淳仁天皇の御陵を参拝しなくてはならないと、淡路島を訪れた。現在、淳仁天皇淡路陵とされている御陵は、どうみても古墳時代のものである。その古墳を再利用して淳仁天皇を埋葬されたのだろうか。その周辺には淳仁天皇所縁の場所が散見できるが、一番印象的だったのは、住人によって霜よけの「コモ」が編まれて、今でも掛けられることである。この地では淳仁天皇は怨霊でもなんでもなく、崇敬をされているのであろう。尚、「淳仁天皇」という天皇名は、明治3(1970)年に明治天皇が追号を賜られたのである。そして京の白峯神宮にも祀られた。死後1,200年を経て尚、天皇家は祟りを恐れていたのである。淳仁天皇、「大炊」「大炊帝」と呼ばれており、古文書では「淡路廃止帝」「廃帝」と呼ばれていたようである。
上写真;京、呪術ライン。菅浦を通過した鬼門方向には、蝦夷が。裏鬼門方向には熊襲が。朝廷に抵抗する蝦夷と熊襲。鬼門と裏鬼門方向に両者が存在したことは偶然だろうか。。。