■ 矢田の虫送り
撮影場所&日;愛知県常滑市矢田、平成20(2008)年6月28日
撮影機材;(祖父江の虫送りも同じ機材)Nikon D300+VR18-200mm
現地情報;19:30始まり。駐車場は、矢田集落センター。
「矢田の虫送り」行事が行われたので、撮影してきた。午後4時半頃から降り始めた雨が降りしきる中、午後7時半から3m前後もある長い松明が約150本、参加地元民約200数十人によって「虫送り」行列が矢田川沿いを村外れまで約800mの距離進んだ。
実盛人形は「ウンカ送り」として、前の週の土曜日に行われたとのこと。
「ウンカ送り」と、松明が出る「虫送り」が別の日に行われるのは、何か意味があるのだろうか。実盛人形は虫送りの呪術的アイテムなのであるが。ウンカ送りという呼称も実は虫送りの同義別称であるから、そのように考えれば「矢田の虫送り」は一回で済むことを二回に分けて行っていることが不思議である。稲作を害する害虫駆除にかこつけて疫病・疫神を攘する本来の虫送りが、ここでは二つに分離しているのだ。私説であるが、実盛人形の出る「ウンカ(稲虫=害虫)送り」こそが本来の虫送りとして始められ、現在「虫送り」と呼ばれている松明行列は、祇園祭の要素が流入して習合しているのではなかろうか、、、。稲虫の害虫による災いだけでなく、疫病や日照りなどを怨霊や疫神の祟りとして祓攘する祇園祭の要素がである。
上写真左;矢田八幡神社での祭典で、忌火を提灯に移す。上写真右;忌火から松明に点火する。
●平成21年度の「矢田のウンカ送り」、「矢田の虫送り」
撮影年月日;ウンカ送り(6月27日)、虫送り(7月4日)
撮影機材;Nikon D300+VR18-200mm&VR70-200mm
今年も常滑市矢田で、「矢田のウンカ送り」が行われた。初夏の農耕儀礼で、実盛人形という悪霊・疫神の憑く依代を先頭に、集落の端まで行って流し清めるのである。源平合戦のおり、斉藤実盛は田の稲に馬が脚をとられたところを射られたので、実盛は怨霊となって稲に祟るようになったのだという。稲に祟るとは害虫や稲の病気を意味するが、稲を害する害虫は、実盛の化身である。ゆえに実盛の人形を依代とするのだが。しかしながら、実際には実盛人形が虫送りの必須アイテムとなる以前には、それは田の神送りを意味したとも云う。田の神送りと、虫祓いは別行事であったのが、何時の頃からか同義と見られるようになったらしい(※)。ここ矢田では、それが顕著である。実盛人形の後ろを、“ふうふ鳥”という作り物が追うように進む。鳥は害虫を喰うので、その“ふうふ鳥”が害虫の憑いた実盛人形を追い払うのだという。やっぱこれは《虫送り(うんか送り)》なのだ。しかし矢田では、《虫送り》と称する行事は、また他日に松明行列として行われる。昔から実盛人形と松明は、別々に行っていたという。興味深いものだ。
「ウンカ送り」は実盛人形だけで松明は無し。そして「虫送り」の日は松明だけで、実盛人形は無しである。同じく愛知県の「祖父江の虫送り」では実盛人形と松明が同時に出るし、そのようなパターンが虫送りとしてはオーソドックスなはずである。なぜ実盛人形と松明を分けて行うのか、、、それは昨年のUP部分でも適当に書いているが、今にして思えば、松明行事を「虫送り」と呼んでいるが、これは盆の精霊迎え・送りの行事が本質だったのではないかと思えてきた。稲虫に象徴される疫神送りと、精霊迎え・送り、ボーダーレスと云えば言えないこともないが、この夜の松明行列は、門火ではないかと思うのである。それに対して、先週の「ウンカ送り」こそが、虫送り の本質的行事であったのではないかと思うのである。
参考文献(※)【民間暦】宮本常一;講談社学術文庫
上写真3枚;「ウンカ送り」。実盛人形と、フウフ鳥が集落の結界へ向かって行く。
■ 祖父江の虫送り
撮影場所&日;愛知県稲沢市祖父江町、平成20(2008)年7月12日
現地情報;19時より式典。行列は19時20分頃出立。駐車場は、牧川小学校
「祖父江の虫送り」行事には、虫送りの呪具である実盛人形が登場する。実盛とは、、、
寿永二年(1183)五月、平家軍の一翼を担った斉藤別当実盛は破竹の勢いで進む木曽義仲軍と、加賀の国篠原で合い対峙した。しかし平家軍の総崩れの敗戦の中、実盛はただ一騎孤軍奮闘し、手塚太郎光盛に討ち取られた。斉藤別当実盛が討ち取られるとき、馬が田の稲の切り株に脚を捕られたところを討たれたので、実盛は怨念から田の稲に災いする害虫となった。稲の生育を阻害する害虫や病気=実盛の怨霊 の象徴として、実盛人形は祓攘のための呪具として重要である。
しかし、実際は【平家物語】(岩波文庫)を読んでも、実盛が討ち取られるときに稲に馬が脚を捕られた記載は無い。【吾妻鏡】(〃)をみても、やはり記載は無い。
あるいは加賀の時宗念仏僧侶が室町時代前期の応永21(1414)年に、念仏供養の場に現れた老人が実盛の怨霊であった、という逸話(※)から話が発展したのかもしれない(この逸話から、能【実盛】が創作された)。では何故、実盛か?ということになる。
それは実盛のサが、早乙女のサなどと同様に、田の穀霊の観念を現す語であることからかもしれない。または、加賀地方で凶作や稲虫の害が出たときに、実盛の祟りという恐怖が念仏僧の逸話に付会されて流布されたのかもしれない。
余談になるが、斉藤別当実盛の館跡は、福井県坂井市長畝にあるそうである。長畝日向神楽http://www.photoland-aris.com/myanmar/japan2/001/ の撮影で3回訪れている地でありながら、今だ館跡を訪れていなかったのは油断していた。
ともあれ「祖父江の虫送り」では、出立場所の牧川小学校から周囲の約900m程を25分程で行列が周る。そして最後に牧川小学校裏で、松明と共に実盛人形が焼かれる。怨霊の依代となった実盛(人形)は、業火で焼かれて冥界へ攘されたのである。
《参考文献》(※) 【面からたどる能楽百一番】淡交社
上写真;藁で作られた実盛人形。兜のしころも再現され、太刀まで帯びている。
上写真3枚;高張提灯を先頭に、実盛人形に松明が田の畦を巡る。
上写真;田を巡った後、松明が炎の中にドンドン投入され焼かれる。
上写真;松明が全て焼かれた後に、実盛人形が業火に焼かれる。穢が焼かれ攘されたのである。