※ 磐座、磐境、岩屋などの総称を「イワクラ」と表記しました。
《 長崎県、対馬 》
673年、対馬南部の豆酘郡内院村に照日某という日神の祀りに仕える巫女がいた。その母は虚船(うつろぶね、うつぼぶね)に乗って漂着した高貴な身分の女性であり、娘がいた。その娘は白鳳十三甲申歳二月十七日に、日輪の光に感精して男子を産んだ。この子供は太陽(=お天道)から授かった太陽の子(=天童)ゆえに、天道童子と名づけられた(または天道法師、とも呼ぶ)。
天道童子は嵐をまとって空を飛ぶことができ、上京して元正天皇の病を治すなどの呪術を行うことができた。「天道童子」とは天道と天童を合わせた和製称号で、仏教の鬼神である護法童子と道教の神仙を複合して上に儒教の天道を習合させた尊称である。ただしそれだけでなく、対馬特有の穀霊の民俗信仰が習合したことで天道信仰となっているという。
天道信仰の中心人物である天道童子は豆酘の卒土山(天道山;龍良山)に入定したということで、墓所が龍良山南面・浅藻の八丁郭にあり、その母の墓所は北面の山中の裏八丁郭にある。その2つは特に強いタブーの地として「オソロシドコロ」と呼ばれた。八丁郭とは塔頭、または頭頂がなまったとも考えられるが、頭頂とは聖者の墓所のことである。そして山の名前にもなっている卒土とは、鬼神を祀った処であり、鬼とは死者の魂魄すなわち死霊であり、祖霊のことであった。つまり卒土山(天道山;龍良山)は死霊・祖霊の還る山であったのだ。ということは卒土山の一部分、例えば表裏の八丁郭の周辺は、埋葬地であった可能性があろう。禁足地としたことは、一般に不入とすることは死霊の祟りとか、そのような死後の世界の宗教観が有ったのかもしれない。
卒土山の麓である豆酘の集落内の多久頭魂(たくずだま)神社に遥拝所(ようはいじょ)があり、ここで神事を行っていた。その神事は御神饌として古代米の一種・赤米が伝承されていたり、かつて中国や日本で行われていた古代の占いの技術「亀卜」(きぼく)が現在も行われている。
このように天道信仰は、天童法師という超能力者の物語を骨格としているが、穀霊崇拝や太陽信仰、山岳崇拝などさまざまな要素が混ざり合っている。
天道信仰は、伝承では7世紀が起源とされているが、平安時代から中世にかけて神仏習合により形成された対馬固有の修験道の一種で、その祭祀形式や行事には古神道の要素が多く伝承されている。そして貞享三(1686)年に編纂された『対州神社誌』に掲載された「天道菩薩縁起」の内容から判断すると、天道信仰が各種宗教要素が習合して成立したのは、平安時代末期ころと考えられるという。
卒土山の山中の二ヶ所、表裏八丁郭と豆酘の多久頭魂神社には、石を組み合わせて石塔状にした磐座が存在している。表八丁郭は天道童子の御墓で、裏八丁郭は御母堂様の御墓という。ただ、そうだとすると多久頭魂神社の不入坪(いらぬつぼ;禁足地)の石塔は誰の御墓というのだろうか。御墓説は疑問である余談だが、浅藻集落の人はこの石塔を「バンキョウ」と呼んでいらっしゃったが、漢字では「磐境」ということになろう。しかしイワクラ学的には磐境は石や岩で囲まれた祭礼儀礼空間などを指すから、やはり磐座と呼んだ方が正しいだろう。山自体が死霊が集まる、あるいは御天道様(太陽)に近い聖地だとしても、象徴的装置として石組みが構築された可能性を考えている。山だけに拝むのは漠然としているので、山の神仏に向かい合い出会える場所が石組みの磐座であったのだろう。
対馬北部の上県町佐護(かみあがたまちさご)にも「天神多久頭魂神社」(てんじんたくずだまじんじゃ)があり、こちらも天道信仰の中心地だった。
なお、表八丁郭には県道24号線から隘路を300mほど行き駐車。そこから徒歩で150mも歩くと拝殿である小屋がある。平安時代末期に成立した天道信仰は昭和36(1961)年に対馬在住の山下雪(師)が霊夢をみたことによって、様相を変えて再興された。現在存在する小屋は昭和55(1980)年に建てられた拝殿で、その後は平山隆次郎氏に受け継がれ、そして現在は山下師の御孫さんである同じく山下雪師によって「天道教」として浅藻集落の人々によって信仰されている。
上写真5枚;表八丁郭 (対馬市厳原町浅藻)
毎月9、10、18日には拝殿に於いて山下師による祭典が地元崇敬者参拝のもと、斎行されている。ただ、参拝者の方に伺った処、高齢者が多いのでバンキョウ(磐境、石塔、磐座)への参拝は行っていないということだ。
上写真2枚;多久頭魂神社 (対馬市厳原町豆酘)
不入坪(イラヌツボ)という禁足地が本社横の卒土山(天道山;龍良山)側に広がっており、灯籠と注連縄で結界されている。覗いてみると、崩れているが表八丁郭のようなバンキョウ(磐境、石塔、磐座)の安座を認めた。
上写真2枚;ヤクマの塔 (対馬市峰町木坂)
日本海に面した海岸に、天道信仰の典型と云われる最大で直径約2m、高さ約2.5mの石塔が四基、安座している。
旧暦六月初午の日に、この石塔の前に当前(とうまえ)と呼ばれる当番が天道社に参拝後に石塔を組むという(かつては祭典後に撤去していたが、今はそのままらしい)。
その石塔の前に住人が供物を捧げて子供の成長祈願や家内安全を願ったという。石塔の背後の山が天道山という。
対馬にはかつて、同様な対馬固有の民俗信仰が多く有ったのだろう。