撮影場所&日;
静岡県周智郡森町、平成17(2005)年4月3日(日)
森町では既にUPしてある小國神社・山名神社、そして今回UPの天宮(あめのみや)神社の三箇所で舞楽がある。
山名神社の舞楽はそのキャプションにも記したように、八坂神社の祇園祭由来の疫神・牛頭天王を祀る御霊会という、凶意鎮撫の陰陽道的祭祀に付随する舞です。
行疫神・疫病神鎮静の山名神社の舞に対して、小國・天宮両神社の舞は、その奏される意図が異なります。両神社での奉奏は、神社の神幸祭を伴う例祭においてであり、これは御祭神の神威更新を祈念する祭典での舞であります。山名神社の天王祭舞楽は、その内容においてかなり呪術的側面がありますが、小國・天宮両神社十二段舞楽は、より中央の三方楽所由来の舞楽の面影を残しており、呪術性は無くはないものの低いです。なぜなら、大陸生まれの雅楽が日本に伝えたのが渡来僧や留学僧であったため、日本では寺社の祭典・法会などで奏されたのが最初ですが、大陸方面では儒教の礼楽思想に基づく宗教音楽ではなく、俗楽が日本に入ってきたのが雅楽の元だからです。もし現在の舞楽、今回UPの天宮神社舞楽に呪術性が有るとしたら、中央から当地に伝わった後に密教的儀式などの影響を受けて変化していると考えられます。事実、この天宮神社は神宮寺を有し、小國神社と共に密教体系の中に組み込まれ、両神社をもって金剛界胎蔵界両曼荼羅という宗教世界観の具現とされてきました。舞楽においては、中央の左方右方の曲・舞の区別ではなく、殆ど同一の曲を装束の色彩基調を赤(小國神社)・青(天宮神社)と変えて、両神社の舞楽を番舞(つがいまい)としてしてます。ですから中央では左方舞の蘭陵王が、天宮神社では青装束で舞われます。
尚、天宮神社の舞楽は「天社穀」という氏子の若者集団が支えています。天正17(1585)年に社殿が再建された時に例祭が復活、その時に組織された若者集団がルーツという、伝統有る集団組織です。
天宮神社は欽明天皇(在539〜579)の創建と云われてます。その神社に舞楽が伝わったのは、慶雲2(705)年に、京から藤原綾足が着任した時といわれてます。大宝元(701)年に大宝律令が定められて治部省雅楽寮ができて、多種の楽が纏められたのですから、その4年後に既に伝わったとは、早い気もします。
ともかくも森町の舞楽は長い伝統と歴史があり、中央から離れても伝わっているのは驚きと感動です。このような素晴らしい舞が現代においても拝見できることは、限りない喜びです。
《参考文献》
【天宮神社十二段舞楽】森町教育委員会
【雅楽(日本の伝統芸能1)】高橋秀雄;小峰書店
【雅楽壱具】林陽一・東儀俊美ら;東京書籍
参考HP;森町HP
上写真左は、神幸祭を先導する猿田彦。天孫降臨神話に基づいて、赤ら顔の鼻高天狗系の猿田彦面が先導する場合が多いが、天宮神社では青面の「青面鬼」と称される面を着けてました。上中央上下写真は、祓所での修祓と御旅所での巫女舞。写真上右は、神幸祭で巫女舞を舞う少女の熨斗付き髪飾り。
第二番【色香(しきこう)】
仏の舞といわれてます。小國神社でもUPしてますが、中央では廃絶した舞楽【菩薩】が原型かとも思いますが、想像にすぎません。
ただ、かなり“増殖儀礼・感染呪術”がある舞いで、ここの舞楽でも珍しい内容です。舞人の指の形、上左写真はモロに女性を表わし、上右は男性を表わしてます。交合での豊穣、家や村の繁栄祈願性の強い舞です。この呪術性は、舞楽が中央から伝わってから加味されたか、あるいは後世作の曲であるかもしれません。仏面で、色香を「しきこう」と呼ぶ曲ですが、「いろか」とも読める意味深な舞です。
第五番【太平楽】
中央では左方武舞ですが、右方を受け持つ天宮神社にも青系をメインとした装束で舞われます。
蘭陵王は、本来は赤系装束の左方舞曲ですが、ここでは青系装束で舞われます。既にUPしてます小國神社の蘭陵王と見比べて頂きますと、違いがお分かり頂けます。
抜頭の後段が、座頭の坊(ザットロボー)。稚児があまりの美しさに攫われたので、その様子をモドキをする。
もどきをしたから、もう大丈夫だ、という予防的感染呪術であろう。。攫ったのは、疫神だったか、人攫いであったか。。。