写真 上段左; 正宮板垣御榊 上段右; 手水舎 下段; 川原祓所 毎日朝夕に神様に神饌(食事)を差し上げる祭である。伊勢神宮の最も古い祭祀の一つと思われ、しかもそれが1,300年間一度も中断されることなく継続されてきた驚くべく事実がある。 伊勢市内の民家の軒下には、年中「注連縄」が掛けられている。 【伊勢神宮】櫻井勝之進著;学生社
外宮・日別朝夕大御饌祭(常典御饌)
神饌は当初は内宮まで運んでいたが、神亀6(729)年に外宮に御饌殿が再建されてから、ここが神様の食堂となった。
神様の食事の調理は、忌火屋殿で朝食は午前4時45分頃から、ライターやマッチも使わずに火鑽杵(ひきりきね)・火鑽臼(ひきりうす)で権禰宜が発火させる。
神饌は、御水、御飯、御塩、季節の野菜、海藻、魚介、御酒など九品目。調理が済むと、禰宜、権禰宜、宮掌そして出仕が忌火屋殿から御饌殿へ供進される。神様の食事時間は、夏場は午前8時と午後4時である。
約30分もかけて食事が終わると神饌を入れた辛櫃は出仕により忌火屋殿に戻され、禰宜、権禰宜そして御饌殿の御鑰(みかぎ)を持った宮掌が退下される。
この日本で1,300年間絶えず行われる神事は立ち入り禁止の区域で行われるので、撮影チャンスは忌火屋殿から御饌殿への神饌の供進される10秒程(下に掲載、上の段左写真)と、食事が終わって辛櫃が下げられる10秒程(下・上の段右写真)、それに神職さんが斎館へ往復のために参道を横断される10〜20秒(下・下段写真)に限られる。
伊勢市内(蘇民将来)
【古事記】によると、高天原で乱暴を行い、天照大御神が磐戸に隠れるキッカケを作った須佐之男命が、伊勢市内では“蘇民将来”と名を変えて祀られている。
さてこの“蘇民将来”は京祇園八坂神社感神院の祭神である“牛頭天王”と関係がある。
【備後国風土記】より・・・天竺マカダ国の大王が人間界へ下って牛頭天王といった。牛頭天王が南海の龍宮の姫を妻に迎えるために、途中宿を求めたが、長者の巨旦将来(こたんしょうらい)は拒絶し貧者の蘇民将来(そみんしょうらい)は快く泊めた。長者でありながら傲慢な巨旦将来は牛頭天王の怒りをかい、龍宮の帰りにその一族は呪い殺されてしまった。
一方、親切であった蘇民将来には、「これから牛頭天王が疫病神となって災いを成すだろうが、その時“蘇民将来子孫”の茅之輪を護符として身につけていたら護ってやろう」と伝えた。神社の夏祭りで茅之輪くぐりが行われるが、これや伊勢市内の注連縄は、この伝承に由来する。
京八坂神社の【祇園牛頭天王縁起】によると、牛頭天王は薬師如来の化身で、神道では須佐之男命ということだ。高天原で暴れて災いをなしたことが牛頭天王の疫病神と習合(かさなった)のであろう。
京八坂神社の祇園祭は、夏に京で流行する疫病を牛頭天王のせいにして、牛頭天王を神として祀り上げることで疫病を起こす疫病神を封じ込めよう、なだめようとしたのが祭の起源である。
ただ伊勢市内の牛頭天王由来の“蘇民将来子孫”の護符は、京祇園と関係があるだろうか?朝廷と伊勢神宮の関係からはそうかもしれないが、むしろ熊野本宮大社の祭神である須佐之男命との関連の方が強いかもしれない。。
整理すると・・・
疫病⇒疫病神=牛頭天王=須佐之男命⇒護符・注連縄・茅之輪=“蘇民将来子孫”⇒無病息災、ということである。
“蘇民将来子孫”の注連縄には額として「蘇民将来子孫」「笑門(将門)」「千客万来」などバリエーションがあった(下写真)。
ただ、内宮の近隣地区では注連縄の額を紙垂で隠したものもあった(下・下段右写真)。これは、内宮の至高神・天照大御神に須佐之男命が遠慮しているため、と謂われている。
《参考文献》
【伊勢神宮】所功著;講談社学術文庫
【神道祭祀】真弓常忠著;朱鷺書房
【神社と神々】井上順孝著;実業之日本社
【日本文化の源流を訪ねて】綛野和子著;慶應義塾大学出版