日本!(お神楽・田楽)
No.28 長滝の延年

撮影場所&日;岐阜県郡上市白鳥、平成20(2008)年1月6日
撮影機材;Nikon D300+VR18-200mm、D80+SIGMA10-20mm
現地情報;食事屋台・駐車場あり、神事は13時から。舞は13時45分から15時15分頃まで

上写真;芥子の花笠

長滝の延年は、文禄(1595年)・慶安(1648年)の延年帳で「修正延年」と記されているように、元は毎年正月初めに旧年の悪を正し新年の天下泰平を祈る修正会の結願の日、一月六日に若い僧や稚児に山伏が僧侶や神官をねぎらう遊宴歌舞の芸能であった。それがある段階から芸能自体が行事となって、「六日祭」という形で伝承されてきたと思われる。今日では天井から吊り下げられた花笠を見物衆が奪い合うことから、「花奪(はなば)い祭り」とも呼ばれている。
長滝では寛治8(1094)年に寺社頂戴の節の酒宴が芸能化されたとも云われているようだが、これが修正会の延年として取り込まれたのか不明である。社記の一番古い記録では、弘安2(1279)年に神前で能を奉納したと伝えているが、年代的には観阿弥・世阿弥が能を築いた時代よりおおよそ120年も古い。よって室町時代後期に越前の大和猿楽師が長滝の僧に能を教えて上演した記録や能面が残っているが、その能と弘安2年に演じられた能は、全く演目も内容も別物である。平安時代の能(猿楽)は、伴奏は何であれとにかく身体を動かす舞の「乱舞」、問いに対して滑稽なアドリブで答える「答弁(とうべん)」が主だった内容であった。このジャンルを表す「乱舞」と「答弁」が長滝の延年において、曲名として残っていることは平安時代の能が長滝の延年に与えた影響を示唆しており、面白い。平安〜鎌倉初期の延年は、童舞・白拍子舞・猿楽などがその演目であったようで、何でもアリの状態だったようだ。その延年が室町時代の観阿弥・世阿弥の能の成立に影響を与えたという考えは、現在は否定されている。なぜなら延年は専業猿楽師による能の形成過程から派生した一傍流、つまり延年は寺社という閉鎖的な場での僧侶という芸能に関しては素人の芸だったからである。その延年の芸と並行する形で長滝では、室町時代末期には越前大和猿楽師による指導で演能が行われているのだから、芸能に関心が深い土地だったのだろう。その能も、戦国期の永禄年間まで行われ、以降は行われていない。にもかかわらず延年だけは「六日祭」として今日まで伝承されている。現在は別名「花奪い祭り」とも呼んでいて、天井から下げられた花笠を若衆が人梯子を組んで縁起物として奪い合う。天文(1532〜55)年間頃には舞人が被る花笠を奪い合っていたそうである。その花笠が巨大化して天井から下げられるようになったのは江戸時代初期の頃のようである。しかし、現在のように延年の舞が始まると同時に奪い合いが行われるようになったのは、昭和20年代のことだから、まだ最近である。余談だが、花奪(はなばい)という行為は豊年太鼓踊りに付随して、滋賀県甲賀市土山、信楽、甲南などの祭りで多々見られる。私のHPでは、土山町のケンケト踊りで「花奪い」がUPしてあ る。近 江と奥美濃、、花奪いはどのように伝ったのか、関連無く行われ始めたのか、、、。

《参考文献》
【長滝の延年】白鳥町教育委員会
【能・狂言 I 能楽の歴史】岩波講座、岩波書店
【能の歴史】小林責、増田正造、平凡社カラー新書

上左写真;酌取り、上右写真;乱拍子
酌取りの時、花笠はまだ下がっている。酌取りが終わると花笠は天井近くまで引き上げられ、若衆による花奪いが始まる。

上写真;舞台上で「乱拍子」が舞われる時、拝殿内では花奪いが行われている。両方が同時進行で延年が進む。

上写真;花奪い

上写真;とうべん と花奪い

上左右写真;とうべん 、竿の長さ約2mのとうべん竿を持って舞う

上写真2枚;しろすり(田打ち)、田楽的予祝舞である。


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