日本! (南北朝)
No.9 南朝(新田義貞・北陸朝廷掘ァ

叡山から下山して淡海(琵琶湖)を北上、湖北の湊から敦賀津の金ヶ崎に着いた新田南朝軍は、受禅された恒良天皇(親王)と尊良親王を奉戴して北陸朝廷を樹立した。時に延元元(1336)年十月十日(又は十三日)のことである。

しかし延元二(1337)年三月六日、拠点だった金ヶ崎城に籠城した数百の兵は高師泰を総大将とする足利賊軍一万(太平記では六万)の兵に攻められて落城。

新田南朝軍に属していた瓜生氏の本拠城である杣山城と往復して指揮をしていた新田義貞が不在だった時の総攻撃は、総大将不在時にとにかく北陸朝廷の拠点だった城を潰して(元)天皇の恒良親王(※)と尊良親王の拘束を狙ったのかもしれない。

(※ 前年の十二月二十一日に足利賊軍に幽閉されていた花山院を後醍醐天皇は脱出し、吉野に朝廷を神器を奉じて開いたことで、恒良天皇は親王に戻った。)

金ヶ崎城が落城、尊良親王は戦死、恒良元天皇は拘束され、そして嫡男の新田義顕の戦死後も、新田義貞の戦いは続いた、、、。

上写真;石丸城跡(福井県福井市石盛)
金ヶ崎城の落城後も北陸で勢力を盛り返した新田南朝軍は、延元三(1338)年七月に越後からの来援軍と合わせて三万余の軍勢を、河合之庄の石丸城に集結させた。添付写真の石丸城跡は現在は広場になり、周囲は住宅地となっている。

上写真;藤島城跡に建つ西超勝寺(福井市藤島町)
新田義貞は兵を七手に分け、足羽七城と称される足利賊軍の斯波高経側の城砦の攻撃に向かわせた。新田軍はそれらの城砦を次々と落としていったが、瓜生照率いる藤島城攻撃隊からは連絡が来なかった。藤島城には寝返った平泉寺宗徒も立て籠もり、必死に抵抗していたのだ。新田義貞は戦況視察と督戦のため、藤島城に僅かな兵を引き連れて向かった。

上写真左右;燈明寺畷・新田義貞戦没伝説地(福井市新田塚町)
足利賊軍の斯波高経は藤島城の苦戦を聞き、細川出羽守、鹿草彦太郎が三百余騎の援軍を黒丸城から差し向けた。その援軍と偵察に向った僅か五十名の手勢の督戦軍である新田義貞が、燈明寺畷で遭遇してしまった。弓矢に盾を持参しない僅かな兵の新田軍は次々と射倒され、新田義貞も戦死した。延元三年(1338)閏七月二日(8月17日)、38歳であった。敵が矢を射って来る中、家来は義貞に逃げる様に進言したが、兵を捨てて逃げるのはもっての外と言い、敵軍に踊り込もうとした途端に眉間に矢を受けたという。新田軍の本拠地の石丸城に斯波軍の内偵者が居て、義貞が藤島城へ向かう作戦を斯波軍に知らせたので、待ち伏せに合ったとも云われている。

新田義貞は勇猛果敢に陣頭指揮を行い、戦術は柔軟で戦略も最善を尽くしており、その最大の功績は難攻不落の鎌倉を落としたことに表れている。以降は後醍醐天皇など公家衆と自己の行いたい戦略との狭間で苦悩しながらも、最大限に南朝に尽くした忠臣であった。徳川家康が新田氏の子孫であると称した時点で、新田義貞を高評価していたことが分かる。

上写真左右;新田義貞公御墓所・称念寺(福井県坂井市丸岡町長崎)
新田義貞の遺骸は輿に乗せ時衆八人にかかせ、葬礼のために往生院に送られたという。
往生院は石丸城の近くにあった河合庄往生院と思われるが、中世末期に往生院が衰退して称念寺に併合されると同時に、御墓所も長崎の称念寺に移転したと思われる。

上写真2枚;新田義貞公御祭神・藤島神社(福井市毛矢)
新田義貞公 兜(藤島神社蔵)
兜は新田塚あたりで百姓嘉兵衛が掘り出し、福井藩軍学者の井原番右衛門が入手。鑑定の上で義貞公の兜と証明して福井藩主・松平光通公に謹呈した。以来、福井藩主松平家に保存されてきたが、明治9年11月に新田義貞公を御祭神とする藤島神社創建にあたり、松平茂昭氏より寄贈された。
兜には元応元年(1319)八月の製作年号と、宮中守護の三十神名を刻んである。兜は地中に長年埋まっていた腐食が無い。それは合戦後に地元のお百姓さんらが残党狩りで武具を奪って保管していたためと、解釈されている。


■ 勾当内侍 のその後

上写真;浅津橋(現・朝六ツ橋;福井市浅水町)
新田義貞の京における愛妾である勾当内侍の元へ、北陸へ来るように迎えがきた。内侍が杣山城に着いた時、義貞は足羽方面に出撃していたので、内侍は足羽に向かった。
しかし浅津(あそうづ)まで来た時に瓜生の軍に遭遇した。義貞公が戦死したとの報に足羽で後を追うという勾当内侍を、杣山城に連れ戻した。内侍は京に戻り、仁和寺のあたりに隠れ住んだという。
添付写真は、勾当内侍が義貞公戦死の知らせを聞いた場所。

上写真;勾当内侍供養祭(野神神社例大祭;滋賀県大津市今堅田)
新田義貞が後醍醐天皇とわかれて叡山を下り、北陸を目指した時に出航した堅田湊、その地で勾当内侍を祀る祭礼が斎行されている。野神神社例大祭では、勾当内侍の御墓と伝わる自然石に淡海(琵琶湖)の水をかけて浄める。
実はここ、淡海のほとりで勾当内侍は義貞公の戦死の後を追って入水したという悲話が伝わっている。
他の勾当内侍のその後の諸説、、、 髪を切って仏門に入り、嵯峨野の往生院(現 祇王寺)で終生 義貞公の 菩提を弔って生涯を終えた、という説。 新田義貞公の出身地の上野新田荘内武蔵島柊堂で晩年を過ごした説なども存在する。


■ 尊良親王 御墓(京都市左京区南禅寺下河原町)


京都の閑静な住宅地に10m四方ほどの垣根で囲われた場所がある。 
周囲は京都でも観光客がゾロゾロ歩くような場所ではない。
この垣根の中には、南朝の皇子が埋葬されている。
後醍醐天皇の 一ノ宮である、尊良親王だ。
延元2(1337)年03月06日、足利賊軍方に包囲されて北陸朝廷の居城だった金ヶ崎城(現・福井県敦賀市)は、新田義顕ら南朝軍が全滅する中で、尊良親王も自刃されて落城した。
尊良親王の首級は足利賊軍によって京・禅林寺の夢窓疎石の元に送られて、葬礼がなされた。
禅林寺(永観堂)の近くの添付写真の場所が尊良親王の墓所ということだが、金ヶ崎城内には「尊良親王御陵見込み地」という場所がある。
金ヶ崎城内を 胴塚、そしてこちらが首塚と推定すればいいだろう。もっとも、本当にそこに埋葬されたかは別として、供養塚と思えば 首と胴が分かれた尊良親王の生涯に手を合わせたくなるだろう。


■ その後の「北陸朝廷」

上写真;「白鹿」という南朝私年号の袖判奉書を受け取った、得江九郎の三日城。
(石川県羽咋郡宝達志水町荻谷)

「三日城」は 南北朝時代、能登国の国人である得江(九郎)頼員 の本拠地であった。

ところで「元号」、例えば今は「令和」が元号だが、この元号は明治以降は「一世一元」と云って、治世の天皇に則したものである。これは天皇の治世を世に強烈に印象付ける目的であるが、明治以前には頻繁に改元された。
崩御による「代始改元」、目出度い場合の「祥瑞改元」、凶事などを攘う「災異改元」、運気の変化を希求した「革年改元」などである。
明治以降は、「代始改元」のみである。
改元は天皇の元で斎行されるもので、それ以外は朝廷の定めたものでないから「私年号」と呼ばれる。私年号は偽年号とも云われるから、どうしてもインチキっぽい雰囲気が漂うのが惜しい。
ところで「三日城」の将である 得江頼員には 「白鹿(はくろく)」の元号の付いた書状が南朝側から送られて残っている。
吉野朝(南朝)の元号の 興国七年(正平元年)、北朝の元号の 貞和二年(1346年)に、「白鹿二年卯月二十日」付けの行貞奉書が中院右中将から発せられた。南朝に与した場合の恩賞を約した内容である。

新田義貞が後醍醐天皇皇子の恒良親王と尊良親王を奉じて敦賀(福井県)で陣を敷いた時、恒良親王は受禅しており天皇として在位し、敦賀に於いて「北陸朝廷」を開いて「白鹿」と改元したという説もある。これは1336年であり、その翌年(1337年)に拠点だった金ヶ崎城は落城して恒良親王(天皇)は足利賊軍に拉致されて京へ連行されており、その9年も後に「白鹿」という北陸朝廷の元号が翻ってきているのだ。南朝の勢力が生きながらえていて恒良親王(天皇)が譲位していたのなら、これは私年号ではなく正式な元号と云えるのだ。
つまり当時の日本には 吉野朝(南朝)が用いた「興国・正平」、北朝が用いた「貞和」、北陸朝廷が用いた「白鹿」という3つの元号が存在していたことになる。
ただし「白鹿」は「私年号」扱いなのが残念である。
そんな「白鹿」の元号が通用していたであろう、得江頼員の所領地が、上写真の場所である。
南朝ファンでも超マニアックかもしれないが、新田義貞の繋がりで「白鹿」の所縁の地はどうしても訪問したかった。


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