日本! (南北朝)
No.7 南朝(新田義貞・北陸朝廷機ァ

(新田義貞は、後醍醐天皇皇軍の総大将である)
湊川における足利賊軍との合戦後の延元元年(1336)、後醍醐天皇の皇軍は叡山への退却を余儀なくされ、 賊軍に包囲されて補給路も絶たれてしまった。

足利は花園上皇・光厳上皇、豊仁親王と合流し、光厳上皇に豊仁親王の天皇即位を要請した。8月15日、践祚の式が行われて光明天皇が誕生するが、皇位継承のシンボルである三種の神器は無い状態での践祚だった。

そのような情勢の下で、尊氏は後醍醐天皇に神器を渡せば両統迭立を行う条件を出し、表向き和議ながら後醍醐天皇に降伏を求めたのだ。尊氏との交渉は叡山を守る新田義貞軍に秘密裏に行われていたが、やがて新田軍の知れるところとなる。義貞はじめ新田軍の激しい驚きと失望の中、後醍醐と義貞の間で次策が立案された、尊氏との和議は本心では無いとのことで。後醍醐が新田義貞に提示したことは、万が一にも自らに不慮の事態が起こることを想定して皇子の恒良に皇位を譲り、恒良親王(天皇)と尊良親王を奉じて北国にて「北陸朝廷」を樹立して尊氏に対抗すること、というものであった。後醍醐天皇は恒良親王に受禅(譲位)を行うとはすなわち、神器の奉載が恒良に渡ったことである。受禅が実際になされたかは、恒良が越前國敦賀津から天皇が使う「綸旨」の形式を発していることから事実である。(ただし賊・尊氏に幽閉されていた後醍醐は京を脱出して吉野に向かい、そこで吉野朝を開いたから、恒良に渡した神器は分身であり、尊氏に渡した神器は偽器だという。)叡山における受禅は延元三(1336)年10月09日に行われ、即日に新田軍は北陸越前を目指して山を下りた。

従がう兵は七千余騎という。新田軍が叡山を下った翌日、つまり10月10日に後醍醐は公家と供奉うる武将と京に向かい、「花山院」に幽閉された。同年11月02日には神器授受之儀によって北朝の光明天皇に神器が渡った。

新田義貞が敦賀の金ヶ崎城に入ったのは「太平記」では10日出発で13日着、「梅松論」では9日発で10日着となっている。

後醍醐天皇が京「花山院」を脱出したのは同年12月21日で、吉野着は同月28日である。

上写真;新田軍は闇に包まれて堅田湊を出港したという。写真は堅田の浮御堂(海門山満月堂)。平安時代の建立ということだから、新田軍も見たであろう。(現・滋賀県大津市本堅田)

上写真;新田軍の将兵も見たであろう、湖上の風景。竹生島の左に伊吹山が見える。

上写真;上陸点の一つである、海津湊。(現・滋賀県高島市マキノ町)

上写真;江戸時代以降の代表舟である、丸子舟。滋賀県長浜市西浅井町大浦の「北淡海・丸子船の館」に保存されている、現役時代最後の一艘。

上写真;湖北最大の湊は、この塩津湊であった。多数の舟が一箇所に着くのは困難であったろうから、当然この塩津湊にも上陸したであろう。(現・滋賀県長浜市西浅井町塩津浜)

延元元年(1336)、叡山を包囲された後醍醐天皇は足利賊の誘いを受けて京へ下山することを決め、洞院実世の使いを新田義貞の元に寄こした。10月09日のことである。

新田軍は 後醍醐天皇が 恒良親王に譲位して天皇として奉ずることを条件として受け入れ、北陸朝廷樹立を目指して叡山を下った。それが9日あるいは翌日の10日のことである。

『太平記』の表現では、その数は7000余騎という。この数の単位は「騎」が用いられているが、騎馬武者が7000騎なら徒歩の雑兵は その5倍として、総勢35000人ということになる。それは大げさとして、総勢3000人としても騎馬は500頭も居たことになる。想像として、これも多すぎと思うが。ゼロが一つ多すぎて、軍馬50頭か。。。

ともあれ新田軍の約3000人は叡山の東の堅田湊から淡海(琵琶湖)を 舟で北上し、海津湊に上陸したという。

形態が確認できる琵琶湖固有の舟である丸子舟が登場したのは、江戸時代である。複数の書物を見ても、琵琶湖での鎌倉時代末期の頃の舟がどのような形状であったか、不明のようだ。

琵琶湖は遠浅で湊の湖底が浅いので、平底の丸子舟が考案されたのである。

2020(令和2)年のNHK大河ドラマで明智光秀が上洛する時に琵琶湖を船に乗っているシーンが有った。描かれていた船は弁才船(北前船のような千石船)は江戸時代の和船であるし、琵琶湖で航行するには湊の近くで座礁しないように沖に停泊して小舟に乗り換える必要が有り、鎌倉時代末期に琵琶湖に実在したか怪しいところである。

ゆえに新田軍軍兵が琵琶湖で乗った船は、丸子舟のような舟と想定してみることとする。丸子舟の平均的大きさは100石舟であるが、300俵くらいの量になろうか。江戸時代の目安になるが、一俵は60Kgであるから、100石積の舟なら300人の重量になる。ただし俵は積めるが、軍兵ならすし詰めでも50人も乗れたら精一杯だろう。とすれば3000人が乗船するに必要な舟数は、60艘ということになる。堅田湊に所属した舟の数は江戸時代になるが、享保5(1721)年の記録では丸子舟は47艘である。その内、100石以上の大丸子舟は23艘しかいない。新田軍の全員や兵馬に荷駄を乗船させるには、堅田湊の舟だけでは圧倒的に少ない。

当時の舟数が江戸時代より多かったのだろうか、、、記録は無い。新田軍は叡山を下る決定をした当日か翌日、早々と堅田湊から船上の人となっている。

3000人の兵や軍馬に荷駄の内の何割かが琵琶湖西岸の陸上を移動したということは、足利賊軍の襲撃も予想されて考えにくい。

何故、3000もの兵や荷駄などが翌日には琵琶湖を北上可能だったか、どの書物にも記載は無いが、それは単純な疑問である。

堅田湊について Wiki には(下記はコピペで)

《承久の乱後、佐々木信綱が現地の地頭に任じられたが、延暦寺・下鴨社ともに対抗するために延暦寺は堅田に湖上関を設置して他所の船を排斥し、下鴨社は堅田の漁民・船主に漁業権・航行権(水上通行権)を保障する事で堅田の経国在民的・交通的特権を保証した。以後、彼らと近江守護に任ぜられた佐々木氏(信綱の一族)は、堅田とその漁業権・航行権を巡って激しく争うことになる。

中世以後堅田荘には「堅田三方」(後に1つ増加して「堅田四方」となる)3つの惣組織が形成され、殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる「堅田衆」による自治が行われており、「堅田湖族」とも呼ばれてもいた。殿原衆は堅田の水上交通に従事して堅田船と呼ばれる船団を保有して、時には海賊行為を行って他の琵琶湖沿岸都市を牽制しつつ、堅田衆の指導的な地位を確保していた。一方、全人衆の中には商工業によって富を得るものも多く、殿原衆との共存関係を築いてきた。》
(以上)

とある。 つまり堅田湊には湖上交通の大きな力が有り、周辺の湊からも必要数の舟を揃えることが出来たのかもしれない。

湖上を脱出するに当たって足利賊軍に情報が漏えいしなかったのは、堅田が足利賊軍の将である佐々木道誉と争っていたから新田軍の味方をしたからだ、という可能性もある。堅田湊から出航した新田軍が湖北の湊に無事に上陸できたのも、堅田衆の大きな力によって各湊の安全と情報の秘密保持がなされていたからかもしれない。

琵琶湖の湖上交通と新田軍の湖上移動の関係について、私の上記のような想像ではなく、きちんとした論文が有れば読んでみたいものだ。

上の写真は海津湊ではなく、塩津湊もある。塩津湊にも新田軍は海津だけでなく分散上陸したと、想像している。

なお塩津湊は埋め立てられており、昔と様相が変わっている。

《舟に関する参考書籍》
「丸子舟物語」橋本鉄男氏著;淡海文庫
「琵琶湖の船が結ぶ絆」安土城考古博物館・長浜城歴史博物館


上写真;雪の深坂古道。(現・滋賀県長浜市西浅井町沓掛)

叡山から湖上を北上して海津湊(現・滋賀県高島市マキノ町)に上陸した 新田官軍は七里半越えを進むも足利賊軍の斯波の兵に遮られて東へ向かい、北國街道に入ったという。しかし七里半越えから北國街道へ出るには、多くの山越えがある。実際は主部隊は 塩津湊(現・滋賀県長浜市西浅井町塩津浜)に上陸して 現在は 深坂古道(添付写真) と呼ばれている深坂越えを進軍したのではないかと思う。

しかし峠越えは強い冬将軍の到来で、多くの兵が雪中に倒れていったという。敦賀に到着したのは延元元年(1336)年10月10日であるが、これを 旧暦新暦変換サイトで見ると、新暦の11月13日の水曜日ということになる。11月にして猛吹雪とは、、、人文地理学者の西岡秀雄氏によると、延元元年は前後の10年間と比較して酷寒の日が多かったことが ヒノキの年輪の成長から、分かるという。足利尊氏と同族でありながら、鎌倉幕府時代には無位無官だった新田義貞が一躍時代の寵児に駆け上がりながらも、ハシゴを外されたかの如く悲劇的結末へ向かう、、、そんな運にも見放されたかのような峠越えが憐れである。

深坂古道(街道、深坂越え)は平清盛が嫡男の平重盛に、 琵琶湖から日本海側の敦賀まで、運河開削を命じた大川に沿っている。
(滋賀県長浜市西浅井町沓掛)。」

上写真;海津湊と塩津湊の中間地点には、大浦という小さいが湊がある。大浦で上陸すると、添付写真の大浦道を通って深坂越えや七里半越えのどちらにも合流できて、敦賀を目指すことができる。
(現・滋賀県長浜市西浅井町大浦)

上写真;横波の集落遠景と、日吉神社境内の新田軍戦没者供養塔。

背後に写っている集落は 横波(現・滋賀県長浜市西浅井町)である。この道路は横波の集落を過ぎると背後の山の中の隘路となり、山を越えると西浅井町庄の集落方面にでる。

この横波の日吉神社境内には、新田義貞公が奉じた恒良天皇(親王)南朝軍の一部である河野・土居・得能の将兵の、供養塔が安座している。

堅田から淡海(琵琶湖)を舟で北上し 湖北の湊に上陸、越前を目指した。

おりしも猛吹雪となった湖北路で、しんがりを行軍していた河野・土居・得能の将兵 300騎は塩津の佐々木一党の熊谷氏の軍に囲まれて、総員自害した。

ところで日吉神社境内の石塔は、造立当時から新田南朝軍戦死者の供養を目的としていたのだろうか? あるいは廃寺の墓地の供養塔が、新田軍戦死者の話に置き換わったのだろうか。

もし造立当時から新田南朝軍の供養なら、自刃の場所は横波だったのだろうか?という疑問もでる。

しかし この疑問に正解を出すのは難しいだろう。

なぜなら新田南朝軍がどこに上陸して、どの街道を通って越前に向かったのか、諸説有るからだ。推定実人数3000人ほどの将兵が一箇所の湊に上陸したのではなく、海津・大浦・塩津などの湖北の湊に分散して上陸した可能性もあろう。  分散した場合、海津に上陸した部隊は「七里半越え」で愛発(あらち)を通って敦賀に抜けるだろう。

大浦に上陸した部隊は「大浦道」を北上し、沓掛で塩津からの「塩津海道」に合流する。塩津海道を北上した場合に有る「新道野越え」は近世になって開かれた道であるから、塩津からは「塩津海道」と「深坂越え(深坂古道)」を通った可能性が有る。

もし河野・土居・得能の将兵 300騎が「七里半越え」の愛発辺りで自害したなら、横波とは離れ過ぎており、なぜ横波に? という疑問が出る。

しかし猛吹雪の中、「塩津海道」を進んでいて雪中で迷って横波方面の谷間に入り込んでしまったなら、横波の供養塔も場所的に納得できる。

なお、新田軍が木の芽峠を越えた、という点については疑問が深い。木の芽峠を越えるには北國街道に入る必要が有るし、途中に椿坂越え、栃木越えなど難所が有り、天皇や公卿にとっては 敵軍に遭遇するのと同等あるいは以上の危険が雪の峠越えにあるからだ。

上写真2枚;
新田軍の一部が自害したような 猛吹雪の日に横波を訪れるということは出来なかったが、できるだけ悪天候の日を選んで訪れた。

湖北を訪れると、新田軍が天皇を奉じて行軍し、北陸南朝樹立を夢見た時に見た風景だろうと、夢想する。

上写真;気比神宮(現・福井県敦賀市曙町)

越前敦賀の気比庄、野坂庄は後醍醐天皇第二皇子である世良(ときなが)親王の所領であり、気比神宮の大宮司の気比氏治はその庄司であったから、後醍醐天皇所縁の地であった。それに新田一族が越前の守護になっていた事も有った、そのような土地柄から京を離れた新田軍が向かう先は越前しか考えられなかったろう。戦略的には北陸で軍を固めて京の賊・尊氏を討つというのは有り得た。

上写真;金前寺(現・福井県敦賀市金ヶ崎町)

金ヶ崎城の山の麓にある、気比神宮の奥の院でる真言宗のお寺。敦賀に着いた新田軍将兵に恒良天皇、尊良親王が行宮とされたのが、金前寺である。なお、尊良親王や新田義貞長男の新田義顕は金前寺の観音堂で自刃されたと社伝にあるが、金ヶ崎城は包囲されて落城寸前であったから、自刃の場は城内本丸であろう。

上写真;金崎宮(現・福井県敦賀市金ヶ崎町)

二か月間「北陸南朝」の御所が存在した、金ヶ崎城遠景と、城の中に鎮座する金崎宮(かねがさきぐう)。御祭神は、尊良親王と恒良親王である。御祭神の恒良は親王であり、天皇とは表記されていない。。。

摂社の絹掛神社には同城で自刃された新田義顕ら、新田軍諸将が祀られている。

恒良天皇と尊良親王を奉じた 南朝 新田皇軍は『太平記』によると延元元年(1336)年10月10日に叡山を出て、敦賀(現・福井県)の金ヶ崎城に13日に入城した、と記されている。

『梅松論』では叡山を9日の夜に出て、10日に入城したと記載されている。猛吹雪で兵の多くを失いながらも、ともかくも金ヶ崎城に辿り着くことが出来たのは、地元である気比神宮大宮司の率いる兵士の出迎えが有ったからであろう。

金ヶ崎城に着いた恒良天皇は、さっそく諸国に参陣を促す「綸旨」を発している。「綸旨」とは天皇が命令を伝える文書であるから、恒良親王は天皇として行動している。叡山で後醍醐天皇が北陸に向かう恒良親王に禅譲(譲位)を行ったのは、確実と思われる。

よって敦賀に「北陸朝廷」が樹立していたのだ。

後醍醐天皇は新田軍が叡山を脱した当日、または翌日になる10日、叡山を下り 足利直義(尊氏の弟)の軍に身柄を拘束されると三種の神器を奪われて、花山院に幽閉されてしまう。

やがてそこから女装をして脱出し、12月28日に吉野(現・奈良県)に入ると、吉野朝を開いて 天子ここにアリ、と宣揚する。

後醍醐天皇が足利直義・尊氏に渡して北朝が手にした神器は、「偽器」だという。そうなると恒良親王に譲位して天皇にして新田軍に奉じさせたのは、何だったのか。

恒良天皇が奉持して行った神器は「分身の偽器」とでも云うのだろうか。後醍醐天皇が吉野で神器の「本体と本体に一番近い分身」と共に座しているとした時点で、恒良天皇は天皇でなくなってしまう。

つまり「北陸南朝」は延元元年(1336)年10月から12月の僅か2カ月の間だけの存在ということになる。後醍醐天皇が吉野に脱するまでの陽動作戦に、恒良親王もそして新田義貞軍も騙されたことになる。

「南朝ファン」を自認しながらも「新田ファン」として、流石に後醍醐天皇の裏切りの狡猾さには、ふざけるな!と、無念極まる思いだ。

北陸では「白鹿」という私号が興国六年(1345)にも用いられていたことから、何らかの南朝勢力が存在していたのだろう。

上写真;新田義貞関連書籍の一部。


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