畿内以外に存在したとされる南朝の朝廷は 美作(岡山県)にも有り、「美作南朝」または存在が後南朝期のため「美作後南朝」と呼ばれる。
美作国勝田郡植月庄北方で1443年に即位された美作南朝初代高福天皇から第九代の良懐親王が親王号を剥奪(1697年)されて庶民になるまで254年間、美作に行宮が有ったのだ。
江戸時代には津山城主の森家に庇護されていたが、元禄10(1697)年に徳川第五代将軍綱吉の時に森家は断絶、直後に良懐親王は親王号を剥奪されてしまった。その10年後の宝永6(1709)年1月13日、徳川が放った刺客によって良懐(元)親王は 横死した。
「美作後南朝」を史実とすれば、地方に南朝の皇胤が存在しては、北朝を擁する徳川幕府の反対勢力に奉り揚げられるか分からないので、抹殺する必要が有ったのだろう。
嘉吉の乱(1441年)で足利幕府に討伐されて没落した赤松家に代って、山名一族が播磨・美作・備前を守護し支配した。この山名一族は北朝を奉じる足利幕府への野心から、南朝皇胤を匿って 美作豊国庄に「植月御所」を営んでいたという。
作州において文化12(1815)年に纏まった「東作誌」の完本が明治36(1903)年に発見されてことにより、当時の諸学者11人によって内容の解明が行われた。
集まったのは文学博士、法学博士、理学博士、国語教授、宮司、国漢教論であったが、結論として「後南朝の大和説・吉野説は徳川幕府によって江戸時代末期に発生した虚史と解され、真実は美作の植月北方の地が後南朝所在の地であり、往時徳川幕府が津山森藩を元禄十年に取り潰し、続いて植月の御所も強制的に廃止した」 という判断が出たという。
これだけの学者が揃っていながら、偽書説が出ずに美作南朝の存在を肯定したことは、驚きであるが、やはりこれは異説と思わざる得ない。
上写真2枚;岡山県勝田郡勝央町植月北。
看板に「植月北・高根」の地名が見えるが、この地名の場所に天皇が住む植月仙洞御所が有ったという。
嘉吉3(1443)年09月23日、北朝の後花園天皇の内裏を襲撃してた いわゆる「禁闕の変」で 神器のうち神璽を奪い、後亀山天皇の嫡孫である 尊義親王がその神璽でもって即位をした。時の美作守護の山名修理教理は元は新田一族であり、添付写真の植月庄北山(今の植月北)に御所を造営し、付近の田庄5千石を付属させた。
この地の御所で即位した 尊義親王は 「天靖」と改元し、美作南朝初代天皇 高福天皇 となった。
上写真2枚;岡山県勝田郡奈義町上町川。
御所の艮の方角に 宮城守護の社である 御所宮日吉神社(町川神社)が、初代 高福天皇の命を受けて建立された。ただ社伝によると「隠岐に遷幸される後醍醐天皇を追って側室の広橋がこの地で皇子を産み、その皇子が住まわれる御所を造営したのが始まり」となっている。
しかしその逸話は再考の余地が有るだろう。ちなみに美作南朝第二代 興福天皇は尊雅王であり、広橋宮とも称されていたので、広橋とはその関連ではないかと思うのだ。
上写真;岡山県美作市北山。
北山城が有ったと思われる辺り。
二代天皇は紀伊で戦死した義有王の遺児の尊雅である。義有王の戦死を無駄にしないためにその遺児を猶子として、第二代天皇 興福天皇とした。
(尊雅王は熊野で戦死したとも云われているが、、、UP 済)尊雅が即位した頃、幕府(室町)が植月御所を襲撃する噂が立ち、これに備えて高福(尊義)の一の宮の尊秀が御所の東南の北山城に入り、二の宮の忠義は高野城に入って御所の東西を固めた。
上写真;岡山県津山市高野本郷。
高野城跡と思われる場所。ただし城跡を示す碑も無い。近隣の人に尋ねても、城跡とは御存知なかった。城とは近くの津山城のような石垣と櫓または天守を備えた建造物を連想されるのかもしれないが。このグランドは昭和22年から昭和56年まで有った「津山市立鴨川中学」の跡地という石碑は有ったが、それ以前は不明なのだろう。中世に廃城になった城というか館ゆえ、伝承も途切れているのかもしれない。
上写真;岡山県津山市上村。
美作南朝 第三代 忠義天皇御陵である。
長禄元年(1457)、赤松残党は北山城に一の宮・尊秀王を襲撃してその皇子である尊上王共々殺害するが、神璽は無事であった。
その翌年である長禄2(1458)年にはやはり赤松残党が植月御所の第二代興福天皇(尊雅)を襲撃して弑し奉ると同時に神璽が奪われてしまった。これを美作南朝記では「長禄の変」と呼んでいるから、現・奈良県吉野郡川上村、上北山村に伝わる史伝とは違っている。
二代天皇の崩御後、初代天皇・高福(尊義)の第二皇子である忠義が即位し、第三代美作南朝天皇となり、明応と改元した。
忠義天皇の時代である応仁元年(1467)、応仁の大乱が起こった。西軍の山名宗全は忠義天皇に「西天皇」として御発輦を乞い、忠義天皇は尊朝親王と森久親王の2人の皇子を連れて京の安山院に行幸した。しかし明応20(1477)年に応仁の大乱が終結すると、忠義天皇らは植月御所へ還幸された。植月御所に還幸されると、尊朝に譲位して隠居した。
忠義天皇が崩御されたのは文明12(1480)年のことである。第四代尊朝天皇の時から南朝年号は不明となっている。
※自称天皇のK沢家伝承では、 応仁の大乱の時に西軍に居た南朝皇胤は「西陣南帝・信雅親王」だったという。
上写真3枚;鳥羽山 萬福寺(勝央町植月北)
美作後南朝 第七代天皇の尊純は慶長二年末(1597)に即位すると、焼失したままだった菩提寺の高福寺を御所の有った鳥羽山に再建して、萬福寺と改称した。初代住職は尊純の弟の見政院法親王が務めた。
萬福寺墓地には江戸時代の巨大な五輪塔が立っており、第八代天皇 高仁(寛永3;1626年即位)の弟で二代目住職の 三楽院法親王の墓だという。元禄七(1694)年一月に七十四歳で死去されている。
初代、二代住職はいづれも美作後南朝の天皇の弟が務めたことになる。余談だが、現在、高根と呼ばれる地名は明治時代までは高仁と呼ばれていたという。
上写真;美作市田殿の遠景
美作南朝(後南朝)の皇孫は、美作の地に健在である。
美作南朝(後南朝)初代の高福天皇(尊義親王)の第三皇子である尚高親王を祖として 流貴王と称していたが、第二代である貴尚の時に王号を廃して流王姓を名乗るようになった。その血脈が、この地に伝わっている。
上写真2枚;岡山県津山市加茂町。
神剣の眠る 菊水山 公卿寺。
宝剣と神鏡を奉じていた美作南朝第八代 高仁天皇(1626年即位)は徳川幕府による弾圧から神器を護るために隠祀する。つまり宝剣は1643年に菊水山公卿寺(津山市加茂町公卿)の仏像の中に隠し、神鏡は土地の臣である妹尾(瀬尾)に託して 地中(美作市作東町土居天皇谷)に隠した。それが先代の住職の時に見いだされ、非公開ながらも公卿寺に剣の存在が伝わっている。
それは1尺4寸8分の両刃の直刀で、博物館(学芸員?)の鑑定では真偽不明との鑑定結果だったそうだ。1尺4寸8分は 56.1センチの長さになる。
宝剣というと長い剣を想像するが、平成元年の 宮中正殿松の間における国事「剣爾等継承の儀」で侍従が奉持する姿の写真を拝見すると、せいぜい80センチほどの宝剣の箱であるから、宝剣の大きさとはだいたいその位なのだろう。
ただし美作南朝に伝わった宝剣が、どこ由来か不明だ。
ちなみに後醍醐天皇は流刑地の隠岐から伯耆の国に上陸した時、出雲大社に綸旨を発して 宝剣の分身になる剣の献納を求めて、それが神器となっている。
そのような例から、皇位継承者が 剣に熱田大神を降臨させて憑かせることで、単なる剣が宝剣に化けるという発想が有るのかもしれない、特に南朝には。宝剣の本体(草薙の剣)は周知の如く、熱田神宮に安座されている。
壇ノ浦に安徳天皇と共に沈んで喪失した宝剣、その後は 宮中清涼殿の御剣を宝剣の代用としていたが、承元4(1211)年に伊勢神宮から剣を得て、以来 宝剣の分身としている。
上写真2枚;岡山県美作市土居。
美作南朝の天皇によって土中に隠された神鏡が、発掘された。
皇位継承の正統性は 血統、そして三種の神器の継承が重要視されるが、南北朝時代ほど神器が本物か偽物か混沌とした時代は無かった。神器を奉持している自らの正統性を強く主張した後醍醐天皇が北朝に渡した神器が偽物であったとか、皇子(恒良親王)に禅譲したと云いながら自らの正統性を再主張したり、あるいは奪い奪われの中で、どの神器が伝承されてきた正規か分からなくなっているからだ。
神器は源平の壇ノ浦の合戦において、まず最大の紛失事態に陥っている。宝剣は水中に没して、回収不可能となったのだ。神璽は海面から回収され、神鏡は平家の船上に残った状態で回収されている。その神鏡(八咫鏡)は本体は伊勢神宮正宮に鎮座しているので、皇位継承で移動する神鏡は分身ということになるが、その分身は三度ほど宮中の火災で焼け出されている。特に三度目の 長久元年(1040年)の火災で神鏡は、粉々になってしまったという。つまりそれ以降の神鏡は、きちんとした円形の鏡の完全状態では無く、破片だったのだ。
そこで話は 美作南朝に戻るが、神剣と神鏡を奉じていた美作南朝第八代 高仁天皇(1626年即位)は徳川幕府による弾圧から神器を護るために隠祀する。つまり宝剣は1643年に菊水山公卿寺(津山市加茂町公卿)の仏像の中に隠し、神鏡は土地の臣である妹尾(瀬尾)に託して 地中(美作市作東町土居天皇谷)に隠した。その妹尾の氏神跡を昭和33(1958)年に発掘していた作東町文化財保護委員らは、地中から鏡の破片を発見した。
それは「作東誌」にあるように、妹尾兼澄が天皇の命を受けて埋めた「神鏡」の破片だろうということになった。神鏡は前記したように宮中の火災によって粉々になっているから、出土した神鏡も粉々であることで、「燼余の八咫鏡」と呼ばれるようになった。現在、出土地には石碑と案内看板が立ち、看板にはレプリカ(添付写真)が掲示されている。
「嘉吉禁闕の変(1443年)」で北朝の宮中お襲撃した時、神器の奪取に成功したのは神璽だけであったはずだ。その神璽をもって同年に後亀山天皇の孫の尊義親王が即位し、美作南朝初代天皇の高福天皇となるのだ。そして「天靖」と改元している。
「嘉吉禁闕の変」で奪った神器は神璽だけだが、いつどこで正規の神器である八咫鏡が美作南朝の元に来たのか、その重要事は不明だ。宝剣についても、多分 代用だろうが、どこから来たのか不明である。このように残念ながら一貫性に欠けている「美作南朝」であるが、諸説出て来るのは興味深いところである。
上写真2枚;岡山県久米郡美咲町飯岡。
美作南朝最後の親王である 良懐親王の墳墓である。
大木の根元に崩れた五輪塔が安座しているが、この石塔が供養塔という。巨大な宝篋印塔と石版は、近年の造立である。
江戸時代には津山城主の森家に庇護されていたが、元禄10(1697)年に徳川第五代将軍綱吉の時に森家は断絶、直後に良懐親王は親王号を剥奪されてしまった。その10年後の宝永6年1月13日、徳川が放った刺客によって良懐(元)親王は 添付写真の場所で横死した。
上写真2枚;兵庫県加西市中野町、清慶寺
「南帝山 清慶寺」には、南帝陵と云われる 宝篋印塔が安座している。
円満院仁尊法親王、長禄二(1459)年八月二十三日没 となっており 忠義王首塚とも云われている。大和説では年月日からは 尊雅王が熊野で襲撃されて落命した頃に一致する。しかし美作南朝の説をとるなら、第二代 興福天皇(尊雅)が植月御所で赤松党に襲われて神璽を奪われて崩御された時期に一致する。はたして大和説か美作説か、、、。
しかし宝篋印塔の姿は江戸時代後期の形で、被供養者である親王の没後400年前後は経過しての供養塔である。誰が誰を何の目的で「南帝陵」として供養したか、不明だ。