日本! (南北朝)
No.16 三河吉野朝(三河南朝)

三河吉野朝(三河南朝)は「 X - ファイル 」である。 99.9% 疑問の世界であっても、その論に自らのアイデンティティと人生を100%を懸けた人達が居た。その人達の影響下、信じた人達もある程度居た。昭和の一時期に生まれた論ゆえ、時間が過ぎると忘れ去られてしまうかもしれない。

偽史であっても100%信じた人達には正史である。

偽書による偽作であっても残された痕跡を求めて、三河を歩いた。

三河とは愛知県東部地域であるが、その場所の「吉野朝」とは何か?

吉野朝とは延元元年(1336)12月21日に後醍醐天皇が足利賊軍の幽閉から脱出し、吉野に朝廷を開いたことを云う(もっともこれに先立つ10月10日、叡山で後醍醐天皇は皇子である恒良親王に譲位し天皇とし、新田義貞軍に奉戴されて敦賀津の金ヶ崎城にて北陸朝廷を開いたのも事実である。この時の神器の行方は恒良親王・天皇側ではなく後醍醐天皇の手元に有ったとも。)

しかし、しかしである。三河吉野朝(三河南朝)論者によると、北陸朝廷を開いた恒良親王は延元二年(1337)3月6日に金ヶ崎城の落城の際に足利賊軍に捕らえられて京で毒殺されているが、その前に尊良親王の皇子の守永親王に譲位して新田義貞や脇屋義助らに護られて脱出し、やがて三河にて朝廷を開いた、

という。吉野にて後醍醐天皇・後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇と続いた吉野朝(南朝)は、実は足利賊を欺くための副統に過ぎないという。

正統は三河に存在し、東山天皇(即位後の恒良親王)・興国天皇(守永親王)・小松天皇(興国天皇の姉または妹の小室門院元子内親王、つまり女帝)・松良天皇・大宝天皇と受け継がれたのだという。

実はこの「三河吉野朝」は「自称・天皇」に繋がっていく。大宝天皇の皇后は富士大宮司三浦家から出た三浦佐久姫で、大宝天皇は皇后の三浦姓を名乗って野に下り農民になったという。この大宝天皇から17世を経ての南朝「正統」の天皇が三浦天皇(昭和46・1971年3月没)なのだという。この三浦天皇を理論的に支えたのが熊沢天皇のブレーンでもあった藤原彦人(石山)氏という在野の南朝研究者で、「南朝史学会」を一人で立ち上げて「三河吉野朝」の研究を発表していた。研究の手段には神風串呂という占いを用いたようで、占いによったためか氏の記述された著作にはどうしても矛盾が垣間見える。ともあれ「三河吉野朝」という考え方は三河地方、特に現在の豊川市や豊橋市地域では広まっていたようで、その影響によって改変した痕跡と思われる事例も見られる。

大正から昭和の戦後にかけて、天皇についての神聖さとやがて天皇について自由に発言できる時代の狭間で生まれた異説として、偽説であっても生まれた背景を決して無視できないと思っている。藤原石山氏の研究の熱量はとてつもなく熱く、驚きである。

「三河吉野朝」には 藤原氏の著作にもあるように、副統の天皇との扱いながらも 長慶天皇の足跡が多々表現されている。藤原氏によると長慶天皇は三河だけでなく富士宮隠れ南朝大本営にも往来していることとなっている。この富士隠れ南朝というのは『富士宮下文書』に書かれた事であるが、同書も現代においては偽書とされているということを、追記しなくてはならない。


上写真;私が持っている「三河吉野朝(南朝)」に関する参考文献。
中西久次郎氏著『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』
藤原彦人(石山)氏著 『南朝正統皇位継承論』 『長慶天皇の三河還幸と諸豪の動き』
『三河に於ける長慶天皇伝説考』『三河国境の南北朝攻防戦』『西浦山無量寺と懽子内親王』
松井勉氏著『三河玉川御所と広福寺』
保阪正康氏著『天皇が十九人いた』、 
原田実氏著『トンデモ ニセ天皇の世界』

上写真;青木神社 (愛知県豊川市御油町膳ノ棚)
御油神社本殿に隣接して、青木神社が鎮座している。本殿の祠の覆い屋根には、添付写真の十六葉八重表菊の紋が付いていた。
青木神社の御祭神は 、青木和田尉盛勝という公家である。青木盛勝は後醍醐天皇の側近の千種忠顕という公家の子で、千種忠顕が京で戦死後に盛勝は三河の玉川村和田に落ちて来て、青木和田尉盛勝と名乗ったという。盛勝は三河南朝で 長慶天皇やその皇子である松良天皇に従がえたが、天授6(1380)年に三河落合城の合戦で討死した。そして一子の青木平馬によって青木神社に祀られたという。
三河南朝に関する重要な古文書に『青木文書(文献)』が有る。青木盛勝の子の青木平馬が応永30、31(1423、1424)年に書き残した3通の覚書で、三河南朝に関する最重要資料という。
青木平馬は 後醍醐天皇側近の千種忠顕の孫で、父盛勝と共に長慶天皇や松良親王に仕えたことからこの文書を書き残した。この文書は昭和7年、青木家の縁者である中西久次郎氏によって世に発表された。この『青木文書』が唯一の「三河吉野朝」の資料であるが、参考文献に文書の写真が掲載されており見ても、私のような素人目にも怪しい。墨筆が稚拙で筆特有の擦れも無い。
昭和10(1935)年6月27日に宮内大臣の諮問機関として長慶天皇御陵の「臨時陵墓調査委員会」が設置されて、全国の長慶天皇伝陵墓参考地を調査した報告書が有る。それを見ると『青木文書』に関しては「偽作」と断定されている。

上写真;西浦無量寺( 愛知県蒲郡市西浦町 )
後醍醐天皇皇女・懽子内親王の墓と云われる石塔がある。
長慶天皇(長慶院法皇)は「三河吉野朝」では天授5(1379)年9月20日に三河の王田殿にて崩御されたという。しかし高野山金剛峯寺には元中2(1385)9月10日の願文が所蔵されている。
この7年の差であるが、天授5年に崩御されたと足利を偽るために懽子内親王が身代りになって自刃されたのだという。現・和歌山県の九度山町では懽子内親王は同地の玉川で亡くなったと伝えているが、「三河吉野朝」説では三河の玉川御所において身代り自刃されたと伝えている。
ちなみに三河で楠木正儀が戦死したのも、同・天授5(1979)年のこと(他説では天授6年)だという。

上写真2枚;八面神社 (愛知県豊川市御油町八面)
添付写真は 八面神社(元の名は、楠社)御祭神 由来案内看板。
「三河南朝」説では、この辺りには三河南朝の王田殿という御所が有って、ここで長慶天皇(※)が御崩御(天授5;1379年)されたという。(※ 第96代天皇が後醍醐天皇。その孫で、第98代天皇が長慶天皇)その地に鎮座しているのが、八面神社である。
御祭神は 楠正行(くすのき まさつら) !。
由緒書きには「天文年間奈良吉野蔵王堂前 正成正朱と別れ供七武将と計八名で一時尼寺如意輪寺に落着き後に東三河まで落人になって現在に至る」とある。
この説明は、いわゆる 「正史」とされる事蹟と大きく異なっている。「正史」では楠正成は延元(1336)元年05月に湊川で戦死し、息子の正行は正平3(1348年)3月に四条畷(現・大阪府四条畷市)で戦死している。
楠正行が三河に落ち延びたという可能性は、0.01%くらいで、かなり無理の有る話だ。
ではなぜ三河の地で楠正行が御祭神となったのか、、、

0.1%の可能性とはいえ、この地に落ち延びた  のが事実で、その伝承から御祭神となった。
落ち延びたことは無かったが、三河南朝の天皇や  皇族が守護神として祀り上げた。
江戸時代中期〜第二次大戦前までの皇国史観の  興隆時の何時かに、御祭神となった。
農村地帯だったので、作物に付く害虫や疫病の祟り神として祀られた。実盛のようなイメージ。
三河南朝研究者の論が、偽史でありながら地元に浸透して正史として迎え入れられた。

おそらく だろう、、、。
ちなみに参考文献では八面神社の御祭神は楠木正儀で、正儀は天授6(1380)年に三河赤坂落合城にて陣中死したと記載されている。神社掲示と書物の矛盾は何んなのだろう。

上写真2枚;石巻山の南山に鎮座する「妙本陵社」。(愛知県豊橋市石巻町)
明治44(1911)年の「南北朝正閏論争」について若干記したことがある。結論から云えば、明治天皇の聖裁によって 南北朝時代の天皇の系譜のうち、それまでは足利幕府がサポートしてきた北朝が正統であったのが一転し、南朝の天皇を正統とした結論に至ったのだ。
つまり 後醍醐天皇 → 後村上天皇 → 長慶天皇 → 後亀山天皇 (後亀山天皇の世に南北合一)という系譜が正統となったのである。
しかしっ! 正統と思っていた南朝の、つまり吉野朝は実は 足利を騙すための 副統で、本当の南朝は三河に存在した天皇の系譜こそが 正統だというのだ!石巻山の山中には、その三河南朝、つまり正統の天皇の一柱である 小松天皇を御祭神として、菊の御紋を掲げるお社が存在する。ところで南北合一時の北朝の天皇に、後小松天皇という追号で呼ばれた諱(いみな)・幹仁がいる。
しかし歴代天皇126代の中に、小松天皇は存在しない。例外的に平安時代の光孝天皇が 別称・小松帝 と呼ばれた例が有るのみである。 しかし実は 小松天皇は 南朝の天皇として三河に存在していたのだ。
北朝の後小松天皇は足利義満の猶子となっていたが、『南朝正副二統皇系系譜』を見ると、父は 三河の小松天皇ということになっている。この『南朝正副二統皇系系譜』は、皇子皇女の系譜がかなり特殊な「三河吉野朝(南朝)」論に依っている。
「三河吉野朝」論で小松天皇は宗良親王の皇子で、興良親王とのことだ。

上写真;石巻山と石巻南山(愛知県豊橋市石巻町)
昭和初期に「エジプトのピラミッドの元祖は日本で、日本にもピラミッドが有る」と唱えたピラミッド研究家の酒井勝軍氏という御仁の論に賛同し、石巻山ピラミッド論を述べる在野の研究者の方もいらっしゃる。なるほど、石巻山の頂上は見事な三角形をしている。
この山には石巻山城址が有って、南北朝時代に南朝側の高井主膳正の居城だったという。延元4(13339)年5月30日、高井氏は足利賊軍と戦い山腹で自害したという。山城には標高356mの尾根n四段の連郭と帯状腰曲輪を認める。

上写真;西明寺(愛知県豊川市八幡町寺前)
♪ 菊のかおりに 葵が枯れる 枯れて散る散る風の中 ♪という歌詞の歌が有る。三橋美智也氏が歌う『 あゝ 新撰組 』である。
その 菊と葵が一緒に咲くお寺が有る。新撰組の所縁ではないから 葵は徳川慶喜ではないし、菊は明治天皇でもない。  そこは愛知県豊川市八幡町寺前の 西明寺である。
寺伝では 徳川家康の東三河出陣に協力し、慶長8(1603)年には家康から寺領20石の朱印地を与えられた、という徳川家康所縁のお寺ゆえに、お寺の中にのあちこちに、葵紋が見られる。
しかし寺伝には一言も天皇家との関連は記載されていないにも関わらず、山門には菊が満開である。
実はこのお寺には この地で崩御された、三河南朝の長慶天皇(第98代天皇。ちなみに後醍醐天皇は第96代)の 御位牌が安置されているらしいのだ。前記したように、寺伝には長慶天皇については触れられていない。
御位牌に関しては上記参考書籍で知っただけで、実際に拝見はしていないことをお断りしておく。

上写真;春興院(愛知県豊橋市石巻本町嵯峨)
現在の石巻本町はかつて玉川村といい、春興殿という御所に守永親王(尊良親王の皇嫡子、後の興国天皇)が住んでいたという。後世、そこに建てたお寺を春興院と号したという。

上写真;十輪寺(愛知県豊橋市嵩山町立岩)
本堂裏に 守永親王の供養塔と云われる、寄せ集め塔が存在する。宝篋印塔の笠を2つ五輪塔の水輪で繋ぐなどして、美的にも残念で惜しい。

上写真;広福禅寺(愛知県豊橋市石巻本町西屋敷)
字広福の地内に有った広福殿に 長慶天皇の皇女の綾子内親王が王子の空因親王と住んでいた。
その跡地に有るのが、広福禅寺。
後亀山天皇の皇子である小倉宮良泰親王には三人の皇子がいた。一之宮の天基親王、二之宮の円満院、三之宮の空因親王(尊義王)である。空因親王は小倉宮良泰親王の死去後、遺骨を奉持して三河に来て、かつて母宮の綾姫と住んだ広福殿近くに葬ったという。
一之宮の天基親王は禁闕の変で戦死、二之宮は尊雅王で、紀州で戦死。三之宮の空因親王=尊義王は三河で即位し、中興天皇となった。この時、年号は天靖と改められた。

上左右写真;御坊塚(愛知県豊川市赤坂町)
小松天皇こと小室門院元子内親王は夫の興良親王死去後、長慶天皇と再婚。
松良親王(1364年8月8日生〜1417年5月24日没)は長慶天皇の第一皇子で、母は藤原の娘である檜御前。松良親王は長慶天皇の崩御後は楠木正儀、盛勝に守られて落合城に籠った。両人の死後は青木兵馬ら青木一族に守られていた。
この松良親王(天皇)の御陵が「御坊塚」である。
松良天皇の次が第100代大宝天皇で、この大宝天皇の皇后が富士大宮司三浦家の三浦佐久姫であった。
大宝天皇は妻の姓の三浦を名乗って野に下り、三浦藤太夫という農民になった。この大宝天皇から17世を経たのが「自称天皇」の三浦天皇こと三浦芳聖氏(1904〜1971年)であった。参考文献としてあげた書物の著者である藤原彦人(石山)氏は、三浦天皇のブレーンであった。

上写真2枚;天皇山 長慶寺( 愛知県豊田市松平志賀町 )
長慶天皇が皇子の頃、南朝の臣であった三河足助一族を頼って来られた時の御所跡に建つという。
どのような由来から生まれた伝承か興味深い。


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