播磨守護の赤松満祐と子の教康は嘉吉元年(1441)06月24日に、第六代足利将軍義教を京・西洞院の自邸での宴の席で暗殺している。この「嘉吉の乱」の首謀者である赤松満祐は09月に足利軍の山名持豊に攻められ播磨城山城(現・兵庫県たつの市)で自害。赤松教康は同じ村上天皇を祖とする伊勢国司の北畠教具を頼って落ち延びたが、北畠はかばいきれず赤松教康ら郎党一同は切腹して果てた。
これにより赤松家の播磨の所領は没収されて、山名が治めることとなった。赤松家では旧家臣が、吉野の川上村・上北山村を本拠とするいわゆる「後南朝」の天皇・皇子を討つことの恩賞で赤松家再興を願がった。「嘉吉の乱」の2年後の嘉吉3(1443)年09月23日、後南朝勢力と云われる武士団が内裏を襲撃し、三種の神器のうち神璽を奪われるといういわゆる「禁闕の変」が起こっている。川上村・上北山村にはその時に奪取された神璽が南朝天皇の元に奉じられているから、赤松家の企みは後南朝天皇・皇子の殺害だけでなく、神璽の奪取も狙っていた。これを「長禄の変」と称するが、旧赤松家家臣による襲撃は長禄元年(1457)12月02日の子の刻(午前零時)に行われた。
後南朝天皇・皇子の殺害と神璽奪取という本懐を遂げた赤松家は、長禄2(1458)年11月19日に赤松政則が幕府出仕を許されている。
そのような事情もあり、播磨には南朝(後南朝)に関する伝承をもった史跡が存在している。
■ 鶴木神社(兵庫県穴栗市山崎)
江戸時代中期の宝暦12(1762)年に編集された地誌『播磨鏡』には鶴木神社について書かれている「祭神は 天國之御剣 なり、一説には日本武尊を祭るともいう。この剣は元来、吉野の南朝の御持物なり。
これを中村石見真島が奪取り北朝へ奉じ御剣也という。ほかに鶯の御剣一振は中村持ち帰って刀を神に祝い祀らんと小社を営んで剣の宮という。その後、池田宰相輝政の領地となった時に文字を改めて 鶴木 の字になったという。この神剣は今はなし。」
ということだ。つまり赤松家再興のきっかけとなった「長禄の変(1457、1458年)」において赤松家旧臣が後南朝行宮から奪ってきた剣を奉じていると思われる。
■ 「嘉吉の乱」嘉吉元年(1441)06月24日
赤松塚(三重県津市美杉村丹生俣)
小倉宮の墓(兵庫県赤穂市坂越本町)
「嘉吉の乱」で足利義教を暗殺した赤松満祐の子である祐赤松教康は、同じ村上天皇を祖とする伊勢国司の北畠教具(のりとも)を頼って落ち延びたが、北畠はかばいきれず赤松教康ら郎党一同は切腹して果てた。
足利義教暗殺は将軍家と赤松氏の私闘であり、諸侯から怨みをかっていた義教暗殺には赤松への同情者が多く、赤松討伐発進に時間がかかっていた。ゆえに管領・細川持之は朝廷に治罰綸旨を奏請し、後花園天皇の綸旨が出たことも大きな状況変化だろう。北畠家の侍大将の鳥屋と長井が兵300を率いて丹生俣の薬師堂に隠した赤松一党の元に駆けつけた時、すでに赤松教康夫婦と家来60余名は薬師堂で自刃していた。これにより赤松家は滅亡する。
しかし赤松家の残党は各地に潜み、再興の機会を伺っていた。その赤松家残党を利用して「禁闕の変(嘉吉3年9月)」で後南朝に奪われた神璽を奪還し恩賞として赤松家再興をする企てが立案された。後花園天皇から綸旨が発給され、奪還のおりには赤松義雅の孫である法師丸(赤松政則)にお家再興と領地を与える御内書も下された。これにより現在の川上村・上北山村に行宮を構えた後南朝天皇・親王を討つ下地が整ったのだ。
つまり「嘉吉の乱(1441年)」「禁闕の変(1443年)」「長禄の変(1457年)」の一連の流れの出発点としての史跡の一つが、この赤松塚である。
余談になるが、この「嘉吉の乱」で赤松教康を見捨てた北畠教具は、「長禄の変」で奪還された神璽の京の北朝入りを躊躇していた吉野郡の小川弘光の元に向かって、説得を行っている。この頃には反足利の姿勢も軟化していたようだ。
上写真2枚;赤松塚(三重県津市美杉村丹生俣)
現・丹生俣の赤松教康ら一党の自刃した薬師堂(江戸時代再建)と、赤松塚。
伊勢北畠氏の霧山城、館から南へ3Kmほどの場所に有り、薬師堂近くの赤松塚には五輪塔が並んでいる。
北畠氏を頼ってきたものの、北畠氏の館には入れず離れた薬師堂に籠ったものと思われる。
上写真2枚;小倉宮の墓(兵庫県赤穂市坂越本町)
「嘉吉の乱」の時、赤松満祐、教康の親子は単に赤松家の暗殺で終わりではなく、その後の展望も抱いていたという。足利尊氏の息子に直冬が居たが、尊氏の弟の直義が養父であり、「観応の擾乱」においては養父の直義と共に反尊氏になり、南朝に属して戦った。その直冬の息子に冬氏がおり、その冬氏の子に義尊が居た。その義尊を将軍に担げ揚げ、小倉宮を天皇に戴こうと考えていた。小倉宮でも二代目の小倉宮聖承で、後亀山院の孫、小倉宮恒敦の子である。小倉宮聖承は正長元年(1428)、北畠満雅が挙兵した時には嵯峨を脱出して伊勢に向かい、擁立された経緯がある。つまり皇位奪還に意欲的な宮だったのだ。赤松は新将軍に足利義尊を、天皇に小倉宮聖承を据えて、国家としての体制を整えようと思っての第六代足利将軍義教暗殺の「嘉吉の乱」であったのだ。
兵庫県赤穂市坂越に存在する「小倉御前の墓」については、赤松政則は「長禄の変」(1457年)で上北山村の一の宮、川上村の二の宮を討った後に海路を坂越に向かったが毎晩亡霊にうなされたので、一の宮と二の宮の供養に供養塔を建てたことによる、という。ただし一の宮と二の宮は小倉宮ではないから、もし「小倉宮」の供養塔であるなら「嘉吉の乱」で担ごうと思った小倉宮聖承の供養塔であろうし、一の宮、二の宮の供養塔なら「小倉御前の墓」という名称が間違っていることになる。
なお、赤穂市坂越には「御前岩」という場所が海にある。足利の追っ手が迫ってきたことから、坂越浦に身を投げて亡くなったということだ。
添付写真上は坂越の御前岩方面の眺めと、「小倉御前の墓」という五輪塔。
■ 南帝御首塚(兵庫県加西市中野町、清慶寺)
「南帝山 清慶寺」には、南帝の首塚といわれる南帝陵が有り、宝篋印塔が安座している。
円満院仁尊法親王、長禄二(1459)年八月二十三日没 と塔の基礎に刻されている。その日付から 忠義王(二の宮?)首塚とも云われている。年月日からは 尊雅王が熊野で襲撃されて落命した頃に一致する。
しかし宝篋印塔の姿は江戸時代後期の形で、被供養者である親王の没後400年前後は経過しての供養塔である。
「長禄の変」で後南朝の天皇と親王を討った赤松氏の残党が帰郷した話が増幅されて、いつしか供養塔が造塔されたのだろう。
■ 興良親王塚(兵庫県姫路市香寺町須加院)
後醍醐天皇の第一皇子である護良親王(大塔宮)の子である 興良親王の墓と伝わる塚が、姫路市の北部に存在する。
興良親王は 正中三年(1326)に生まれ、生涯の殆どを吉野朝(南朝)時代の戦の中で過ごし、その人生は峻烈だった。当時の庶民は、恐らく隣村へ行くことも無く人生を終える人が殆どだったろうが、それに比して戦士の人生は移動に次ぐ移動で、その広範囲の移動に驚くばかりだ。興良親王も現在の県で云うならば、奈良県から茨城県、兵庫県、京都などと、広範囲を移動した。
北畠親房が「神皇正統記」を小田城(茨城県つくば市)で記した時、興良親王も同城に滞在していた可能性がある。つまり親王は、北畠親房の薫陶を受けた可能性が有るのだ。
それなのに 正平十五(1360)年には南朝の賀名生御所を攻撃するという、反逆を行っている。
正平15年/延文5年(1360年)4月、南朝に帰順した赤松氏範を配下に吉野十八郷の兵が与えられると、興良は氏範と共に将軍足利義詮に通じて銀嵩(銀峯山)で反旗を翻し、南朝の賀名生行宮を攻撃して御所宿舎を軒並み焼き払った。南朝では二条前関白(教基か)を大将軍としてこれに抗戦させたため、興良の兵は離散し、興良も氏範により南都へ落ち延びさせられたというが、以後の消息は不明のようだ。
この親王塚は 観応の擾乱(1349−1352)に赤松則祐に奉じられて伊勢山(香寺町犬飼)まで進軍した時に病にかかり逝去され、この地に葬られたと伝わっているのだ。
だとすると、賀名生の御所を攻撃(1360年)する前に死去していたことになる。