正平6(1351;観応2)年11月03日、南朝(吉野朝)の後村上天皇と足利尊氏方との間で「正平の一統」が成るが、やがて破綻する。
拙HPの『日本!〜No.108』に「四十九院(滋賀県)」という内容でUP している。南北朝の争いで、いわゆる「観応の擾乱」時期、「正平の一統」の破綻を招いた「南朝 第一次 京侵攻(文和元年;1352、正平7年02月10日)」に伴い北朝を奉じていた足利義詮が現在の滋賀県犬上郡豊郷町の四十九院(現・唯念寺)まで逃げてきた。
「南朝 第一次 京侵攻」で南朝軍は京に留まっていた北朝の天皇らを拉致拘束して、南朝の軍を経て行宮の賀名生(奈良県吉野郡五條市)まで連行して幽閉した。
近江まで逃れた足利義詮は、四十九院で 踏みとどまると土岐頼泰の軍勢の加勢を得て、03月09日に四十九院を発った。すると同月15日には京を奪還、南朝軍は八幡に撤退する。
その御旗を奪われた足利は、三種の神器も奪還されたため神器なしで、後光厳天皇を即位させて北朝を再建した(文和元年:1352、正平7年08月17日)。
上写真;長屋氏屋敷跡 ( 岐阜県不破郡垂井町 )
翌年(文和2;1353、正平8年)、足利家臣団の佐々木道誉との内紛で山名時氏が南朝に寝返ると、楠木正儀と山名の連合軍が06月09日に京に迫った。「南朝 第二次 京侵攻」である。同年の正月には、足利尊氏の子である足利直冬も九州で南朝に帰順している。この頃から南朝と足利賊軍の争いは、南朝に加えて足利の内紛による離反集合の要素も加わっていく。
「南朝 第二次 京侵攻」に合わせて、また足利義詮は京を捨てて逃げた。ただ前回と違って、今度は北朝の天皇を奪われないように後光厳天皇を奉載して逃げたのである。
前回の近江を通り過ぎ、美濃まで逃げた。逃げて落ち着いた先が、現在の岐阜県不破郡垂井町に行在所となった「長屋氏屋敷跡」として残っている(添付上写真)。
長屋氏は相模の長江氏の出身で、美濃国不破郡に住みついてからは長屋氏を名乗った。後光厳天皇の行宮となった時は長屋景家の時代で、祖父 宗秀、父 宗房の頃から土岐氏に従がっており、足利賊軍に属していた。
館跡の現在は旧・中山道から一本 南に入った道路脇に、「長屋氏屋敷跡」として史蹟が残るだけであるが、かつては旧・中山道に面して館が広がっていたのであろう。椿の巨木があるが、樹齢500〜600年というから、残念ながら後光厳天皇の行在所になって以降の樹木である。
しかし周辺の 原、蜂屋などの南朝軍が長屋氏館を襲うと聞き、急いで美濃国守護 土岐頼康の居城のある揖斐小島方面に逃げた。最初に目指すは、小嶋の瑞巌寺である。最初の後光厳天皇の頓宮となった「長屋氏屋敷址」から次の頓宮である瑞巌寺まで、ナビに入力して走ると、「池田ふれあい街道」という 丘陵地帯を通る快適な道路を走ることになる。揖斐関ケ原養老国定公園の東側を通る道路からは濃尾平野の眺めが広がる。そして 揖斐茶の茶畑も広がっている。この街道沿いには寺社が多く点在しており、恐らく古くから宗教者の往来が有った古道跡なのだろうと思う。
当時は細い道の両側には木々が生い茂っており、現在のような展望は無かっただろうが、この道を後光厳天皇は足利義詮や土岐氏に守られて、冷や汗を流しながら北へ逃げたのであろう。※添付写真;後光厳天皇、足利義詮の遁走路(推定)、現・池田ふれあい街道にて。
上写真;瑞巌寺( 岐阜県揖斐郡揖斐川町瑞岩寺 )
「第二次 南朝 京突入(文和2年:1353、正平8年)美濃国不破郡垂井の長屋氏の屋敷まで逃げて頓宮とするも、周辺の南朝軍襲来の噂に、さらに北上して美濃国・尾張国守護の土岐頼康に守られて瑞厳寺に到着、頓宮とした。その瑞巌寺には「小嶋頓宮之碑」がある。
上写真;「二條良基関白 蘇生泉」と名付けられた湧水。
( 岐阜県揖斐郡揖斐川町瑞岩寺 )
北朝方で、この土地の武将である土岐頼康は後光厳天皇を奉じて、小嶋頓宮に入った。しかし側近の二條関白は病のため同道できず、遅れて(文和2年:1353、正平8年7月20日ころ)京から小嶋頓宮に向かった。
道中で関白は熱で虚ろになり冷水を欲された。伴の者がこの湧水を見つけて関白に差し上げられたところ、体力を回復して後光厳天皇の元に向かわれたという。
湧水には「山ノ神」が祀られており、流れ落ちる先では何処からともなくペットボトルなどに水を入れて持ち帰ろうとする人が大勢いらっしゃった。ただし案内看板には生水を飲まず、要沸騰と書かれていた。
上写真;白樫小島頓宮御旧跡( 岐阜県揖斐郡揖斐川町白樫 )
正平8(1353:文和2)年06月09日の「南朝 第二次 京侵攻」の際に、 足利義詮と共に美濃国まで逃げた 後光厳天皇の頓宮となった 瑞巌寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町瑞岩寺)から更に北方約4kmの山中に、もう一箇所 頓宮となった場所が有る。
白樫の 「小島頓宮御旧跡」である。白樫の何処にあるか不明だったので、とにかく白樫集落に行ってみた。運よく現地の人に尋ねることが出来たのだが、この車で行くのは道が狭いから大変ですよ、と云われたが狭い道は最近の定番なので臆することなく言われた山中へ愛馬を進める。
確かに途中に狭い箇所も有るが、目的の頓宮跡は神社前に有り、道は広くなっている(上写真)。
ここの頓宮の案内板によると、7月26日頃に垂井の宿に到着。そして瑞巌寺に一夜宿られ、翌日(この)小島頓宮に入られたということだ。これは『美濃明細記』と云う元文3(1738)年の記録に基づいている(この記録と他記録では日時が違うので詳細不明)。古い記録には違いないが、行幸の400年後の記録である。
はたして瑞巌寺か白樫が本頓宮であったか、仔細は私的には不明としか言えない。(瑞巌寺では「小嶋」と書かれ、白樫では「小島」と書かれていたので、現地表記に準じた)
上写真3枚;土岐頼清、頼康墳墓( 岐阜県揖斐郡揖斐川町瑞岩寺 )
第一次、第二次の時も 足利義詮そして後光厳天皇をバックアップした 美濃の武将、土岐頼康の御墓が父である 頼清の御墓と並んで、美濃の山の中に眠っているので、墓参してきた。添付写真右側が 土岐頼清(?生〜延元元年、1336没)、左側が 土岐頼康(1318年生〜1388年没)である。
場所は瑞巌寺境内南側の山道を約800mほど登った右端に、二基の宝篋印塔が立っている。
頼清の墓は彼の死後、頼康が瑞巌寺を建立した頃に造塔されたという。宝篋印塔はあちこちに欠落が有って、損傷著しい。私が墓参した時は相輪が笠から外れて地面に落ちていたので、また差し込んでおいた。相輪が落ちるとは、いかなる事態だったのだろうか。頼康の墓は、彼が嘉慶元年(1387)12月に没しているので、その時に造塔されたかもしれない。
二基ともに隅飾は二弧式で、九輪の擦管もしっかり造形されている。左右の宝篋印塔には微妙な違いが有るので、同時に同じ石工によって造塔されたのではなさそうと云えるが、大きな時代差はみられない。土岐頼康の宝篋印塔は没後まもなくか、あるいは1400年代に少し入った頃の作と推測する。
もっとも、石塔に関しても素人なので、私見だが。この美濃の山中で眠り、世の移り変わりをこれからも眺められることだろう。なお、土岐頼清の宝篋印塔の前には石仏が鎮座しているが、馬頭観音だろうか、、、。そして土岐頼康の宝篋印塔の前には 一石五輪が鎮座している。後世に供養で置かれたものだろう。
上写真;武佐寺(現・広済寺) ( 滋賀県近江八幡市武佐町 )
正平10(1355:文和4)年01月16日の「 南朝 第三次 京侵攻」の際に、今度は足利尊氏と後光厳天皇が逃げて頓宮とした、武佐寺(現・広済寺)である。
後光厳天皇、即位して宮中で女官相手に楽しく過ごそうと思ったかもしれないが、寝床を温める間もなく逃走生活だ。
この「南朝 第三次 京侵攻」時は 尊氏の子の足利直冬が南朝に帰順、山名の軍勢に楠正儀の軍も加わって京を攻略した。
南朝軍の京への侵攻に先立つ正平9(1354)年12月24日には、近江の武佐寺に避難したようである。
南朝軍と云っても、この時には南朝の後村上天皇は賀名生から動座されていなかったようだ。南朝軍と云っても、足利内部の内紛で尊氏に反旗を翻した武将が旗印に南朝を利用しただけ、というのが実情なのだ。
なお、京に陣取った足利直冬らの南朝軍に近江から戻って叡山に陣取った足利尊氏は、03月12日に東寺の合戦で足利直冬らを破って勝利をおさめた。余談だが、、、この更に90年ほど経った嘉吉3(1443)年、後南朝勢力が北朝の京・内裏に侵入し、神器を奪還するという「禁闕の変」が起こっている。南北の争いは、暗く深く、皇統の底で蠢いていたのだ。