行宮とは出先における仮の御所という意味である。
南北朝時代、南朝は吉野朝とも称されるように、現在の吉野の山に行宮を設けた時間が長かった。
しかし実際には吉野の山に滞在していただけでなく、戦火を逃れ、あるいは出陣のために移動したりで、各地に転在していた。主なる行宮地の変遷を、経時的に UP してみた。
■ 後醍醐天皇 [日本 第96代、南朝初代天皇]
1318年03月29日(文治2年2月26日)〜 1339年09月19日(延元4年8月16日)
治天;1321年12月28日(元享元年12月09日)〜 1339年09月18日(延元4年8月15日)
諱;尊治
上写真の上;賀名生、旧名 穴生・叶名生(現・奈良県五條市西吉野町賀名生)
上写真の下;黒渕(現・奈良県五條市西吉野町黒渕)
延元元年(1336)年12月21日、足利賊によって京の花山院に幽閉されていた処を脱出した。
12月28日には吉野に到着しているが、途中の同月23日穴生に至ったが、行宮とすべきところが無かったのと高野山衆徒の動向を警戒してそこに留まるのを断念し、同月28日吉野山に至ったという。
後に後村上天皇は賀名生に行宮を構えているから、無かったとは言い難いだろう。賀名生の南方5Kmほどの黒渕に行宮跡が有るが、あるいは後醍醐天皇が寄ったのはここだったかもしれない。
黒渕も賀名生も共に掘一族である。
吉野に着いた後醍醐天皇はその翌日には、高野山に「天子 尊治」と署名した 宸筆の綸旨を発給しており、天皇ここにあり、と宣言している。この時点で新田義貞が奉じた恒良天皇は天皇でなくなったということだろう。新田義貞は後醍醐天皇に叡山行宮に続いて またも裏切られた訳で、新田義貞ファンとしては悔しい思いである。吉野妙法殿は、吉野朝政庁跡であろう。
吉野朝や後南朝においては行宮地を転々と移動されたので、多くの行宮址とされる場所が残っている。
しかし建築物として残る例は、殆ど無い。
上写真は 世界遺産に登録されている、吉野朝時代の行宮とされる 吉水神社書院外観と、内部の後醍醐天皇玉座の間である。
揚げ足取りはしたくないが、いくつかツッコみ処がある。
正平3(1348)年01月05日、四条畷で楠木正行率いる南朝軍を破った足利賊軍の高師直らは、その勢いのまま28日に吉野に来襲、伽藍や行宮を全て焼き払ったという。つまり後醍醐天皇が座した建物は、少なくともその時に炎上しているはずである。全焼はしなかったかもしれないが、後醍醐天皇玉座の間は秀吉の花見の時代の桃山様式だという。
もう一つ、ツッコみ、、、「南朝皇居」の額は無い方がいい。 後醍醐天皇の玉座のアピールかもしれないが、後醍醐天皇にとって南も北も無かったはずだ。朝廷は自らにしか存在しない訳だから、「南朝」ということは「北朝」を認めたことになる。もっともこの額は、明治に書かれているが、後醍醐天皇の心情を現しているとは思えない。 「明治庚辰六月」は明治13年06月であろう。「石由芳全」は誰だか不明だが、当時の神官さんかもしれない。あくまで「後醍醐天皇玉座 想定復元の間」と考えるべきだろう。
上写真;如意輪寺 後醍醐天皇 塔尾陵(奈良県吉野郡吉野町吉野山)
延元4(1339)年08月15日、後醍醐天皇は当時12歳だった義良親王に譲位し、後村上天皇となった。
その翌日(8月16日)、後醍醐天皇は行宮で崩御された。吉野へ行宮をかまえて3年で、宝算52であった。
御臨終にあたって左手に法華経5巻、右手に剣を持ち「玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも 魂魄は北闕の天を望まん」と辞を吐いたという。事実、京に向かって北向きに埋葬されたという。
■ 後村上天皇(其の一)[日本第97代、南朝第2代天皇]
1328年10月04日 oder 11日(嘉暦3)〜 1368年03月29日(正平23年03月11日)
在位1339年09月18日(延元4年08月15日)〜1368年03月29日(正平23年03月11日)
諱;憲良、義良
正平3(1348)年01月04日、楠木正行は四条畷の足利賊軍の高師直・師泰の軍勢に攻撃をしかけた。
前年12月27日に吉野行宮の後村上天皇に訣別して如意輪寺の壁板に辞世の句を残しての出陣であった。
しかし楠木軍は全滅し、足利直義が島津貞久に「吉野退治」と書いたように、高師直軍は勢いにのって1月28日には吉野の行宮まで攻め上がって全伽藍や行宮を炎上させた。それに先立つ1月30日、後村上天皇は賀名生に避難した。当時は穴生といったが叶名生と改名し、「正平の一統(正平6:観応2)11月03日」が成った時に賀名生と改名した。
四条畷の合戦後、吉野の行宮に迫る高師直・師泰の足利賊軍を避けるため、穴生(賀名生)に避難し、堀家に行宮を定めた。現在も鎌倉時代に建てられた旧家が残っているが、その建物は随臣らが利用した建物らしい。
正平4(1349;北朝 貞和5)年、足利尊氏と直義の兄弟の対立は、従がう諸将の分断と対立を生んだ。
いわゆる「観応の擾乱」という内紛が始まる。
直義は一端は南朝に帰順し南北朝の和談をすすめるが、不調となると南朝と手を切り鎌倉へ向かう。
尊氏は直義の討伐に鎌倉へ向かう前に、京の憂いを絶つために南朝に帰順し、直義討伐の綸旨を貰い受けた。
正平6(1351;観応2)年11月03日、尊氏が東征後に足利義詮は南朝の使者である忠雲僧正と対面し、講和を締結。「正平の一統」である。これにより崇光天皇、皇太子直仁が廃され北朝が消滅する。
11月23日、北朝が奉戴していた神器を後村上天皇が回収する。
吉野朝の北畠親房はこの機に京を抑えようと楠木正儀を総大将として、正平7年1月28日には賀名生を発していた後村上天皇は住吉に達し、住吉社の神主である津守の住吉殿を行宮とした。
京進行作戦の実行である。
上写真2枚;男山八幡(石清水八幡宮)行宮、(京都府八幡市八幡高坊)
正平7(1352;観応3)年02月19日、後村上天皇は男山八幡に軍を進める。
2月20日、吉野朝軍は京に侵入し七条大宮で幕軍と激戦となった。京の幕府と北朝を守っていた足利義詮は近江に逃走し、翌日の2月21日には京に残っていた北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光天皇・直仁親王の身柄を拘束し、八幡に連行した。上皇、天皇に親王はやがて賀名生まで連行されて留め置かれた。
北畠親房、1293年03月08日生〜1354年(正平9)06月01日病没元弘3(1333)年05月の倒幕運動に親房は参加していなかったと云われる。しかし長男である顕家が陸奥守として下向した頃から、親である親房も後醍醐天皇に重用され始めたようである。
以来、後醍醐天皇と後村上天皇の忠臣として南朝を支え、その姿勢は戦闘的で足利との和睦には否定的であった。後村上天皇の御世でも第二次京侵攻(1353年06月09日;正平8)は親房存命中に行われており、その年の正月には足利直冬が南朝に帰順していた。そして親房没年の年末には第三次京侵入が蠢動していた。
親房は病床で何の策を練っていたのであろうか。
賀名生の皇居の裏山で、添付写真の円墳に五輪塔が立っているのが、親房の墳墓と伝わっている。
■ 「観応の擾乱」と「正平の一統」
南北朝時代を後醍醐天皇が吉野に着いた日からとすると延元元年(1336)年12月28日からで、終期を南北合一の日とするなら元中9(1392)年11月19日までの 55年11ヵ月間ということになる。
しかし実はその間に、北朝が消滅していた期間が 9ヵ月間ある。
いわゆる「観応の擾乱」と呼ばれる内紛が、足利家内と家臣団の間で起こるのだ。
「観応」とは北朝年号だが、足利の内紛ゆえに北朝年号を用いている。南朝年号だと「正平」ということになる。その「擾乱」において足利家と家臣団の内紛に乗じて南朝と北朝の争いも絡んでくるから複雑だ。
鎌倉の足利直義討伐に南朝に寝返った足利尊氏は、南朝の第二代である後村上天皇の綸旨を得て、鎌倉に向かった。それに先立ち足利尊氏は南朝と和睦する条件である、北朝の天皇の廃止を行った。
正平6(1351;観応2)年11月03日、「正平の一統」である。この場合は、南朝朝年号を用いる。
しかし尊氏が京を留守にする間に、南朝軍は京に侵攻して御所などを制圧する。「吉野朝 第一次京侵攻」で、正平7(1352;文和元年)02月20日、北朝の上皇・天皇と親王を拘束して連行してしまった。
慌てたのは京を守っていた後の二代将軍となる、足利義詮だ。近江まで逃れた足利義詮は、四十九院で踏みとどまると土岐頼泰の軍勢の加勢を得て、03月09日に四十九院を発った。
すると同月15日には京を奪還、南朝軍は八幡に撤退する。
つまり上写真の 四十九院の周辺は1352年02月下旬頃には南朝軍に追われた足利賊軍の軍勢が屯していたのだ。
「正平の一統」と破綻という、ヲタ好みな歴史の一ページの舞台になったのが、添付写真の場所なのだ。
足利軍には御旗というべき北朝天皇が南朝に拉致されたため、天皇不在時期がある。しかし5ヵ月後の08月17日、神器不在のままで後光厳天皇が新たな北朝天皇として即位する。